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森の賢者になりたい

『恋は永遠』MVと『遠近法を使ってヌードを描くアーティスト』

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このMVはストリップ劇場である川崎ロック座を舞台とし、美術史で長年描かれてきたそれと同様に、女性を見られる側、男性を見る側として描き切っている。しかし、その描き方には典型的な美術絵画との差異が認められる。

中世美術において男性は文化的・精神的な存在として扱われる一方、女性は自然的で肉体的な存在とされる。しかし、『恋は永遠』のMVに映るのは、舞台上で裸体を披露する女性と、それを見物するどこか冴えない姿の男性たちである。見る・見られるの構図は絵画と共通しているが、同じように肉体的な女性・文化的な男性の対比が見受けられるかといえば、そうではない。ストリッパーの女性を肉体的存在と受け取ることはできるものの、男性たちの容姿・態度はどうにも精神的には見えない。寧ろ、ストリッパーという職業としての役割をあくまで職業人として果たし切る女性は、客の男性らよりも文化的にさえ映る。

 

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MVはまず、ストリップ劇場に向かう女性の姿を映すところから始まる。彼女は筋金入りの銀杏BOYZファンのようで、着用するヘッドフォンの意匠から、楽屋に積み上げられた書籍に至るまで、隅々からその熱意が伺える。彼女は口紅を塗り、華やかな衣装に身を包んで舞台に立つ。ここでようやく、『恋は永遠』が流れ始める。ここまでで2分、動画全体から見ておよそ3分の1にもなる時間が経過している。MVでありながら表題の曲に入るまでを長く取り、大きく時間を割いてまでこのようなシーンを挟みこんだ意図は、ストリッパーである彼女を、あくまで等身大の人間として描くためではないだろうか。

ストリップ劇場は紛れもなく非日常の空間で、見る・見られるの極致ともいえる場所である。しかしそこで働き、性の対象として目を向けられるストリッパー、彼女らにも日常は確かにある。彼女らにとっては非日常が日常であるかもしれないが、彼女らは我々と同様に趣味を持ち、同様に音楽を愉しみ、同様に泣き、同様に笑い、同様に悲しむ。彼女らはただ性的関心を向けられるだけの存在でなく、我々と同じ日々を生きる同じ一人の人間であること、それを示すための長々とした2分間なのである。

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次に男性に目を向ける。彼らは金を払って女性の裸体を見物しに来た、見る見られる関係の見る側にあたる見物客である。MVの女性を嘗め回すようなカメラワークは、恐らく都度映される彼らの視線そのものであろう。エロスからなる見たいという欲求に忠実に、女性の裸体に目を向け笑みを浮かべるその姿は、芸術を鑑賞する文化的なそれとは似ても似つかない。己の欲求に忠実な面で、文化的というより寧ろ肉体的とさえいえる。そんな彼らは華やかな衣装に身を包む女性とは対照的に、見るものにどこか地味な印象を与える。チェキに映る眼鏡をかけた男性や手をたたく無精ひげの男性、チェックのシャツを着た男性。総じてどこにでもいそうで、冴えないイメージの男性ばかりである。

 

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ここで注目したいのが、観客の男性の表情である。ストリップが行われている間、彼らは楽しげに手を叩き、まるで子供のような笑みを浮かべている。しかし対照的にMVの最後、劇場を去る彼らの表情はくたびれていて、どこか悲しげな面持ちを見せる。中には仕事帰りであろうか、スーツを着た男性の姿も見受けられる。恐らく、彼らは日常に疲れている。そして、ストリップ劇場という束の間の非日常に楽しみを見出している、現代に生きる一人の人間なのだ。途中映るチェキに書かれた「いつも応援ありがとう」「今日も応援ありがとう」の文字、そこからわかるのは、彼らは劇場に足繁く通っているいわば常連客の類であること、すなわち彼らは日常の中に、一種の清涼剤としてストリップを求めているということだ。


ストリップ劇場という単語に嫌悪感を覚える人も、決して少なくないだろう。男女平等が掲げられ、セクシャルなコンテンツを排除するのが時流である昨今、ストリップはおおよそ時代錯誤な代物であるかもしれない。しかし、だからこそ、このMVの舞台としてストリップ劇場が選ばれたのかもしれない。

 

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MVにおいて、男性は見る側で、女性は見られる側というのは徹底している。見られる側であるから女性は口紅を塗るし、男性は間違いなく女性を性的に見ている。時代に反する描写に溢れているかもしれないが、一方で中世美術的な「芸術を鑑賞するには高い知識と教養が必要であり、女性にはその能力は備わっていない」という価値観のもと生まれる、文化的・精神的な男性と自然的・肉体的な女性という構図はこのMVにはない。現に女性が音楽という芸術を楽しむさまが描かれているし、男性は裸体に喜びの表情を見せている。これは『遠近法を使ってヌードを描くアーティスト』に描かれた、無防備な女性と絵に集中する男性とは対照的なものだ。つまりこのMVは、一貫して男性が見る側、女性が見られる側として描きつつも、ある種対等に見る側と見られる側を描いた作品ともいえるのではないだろうか。