毎日ウホウホ

森の賢者になりたい

ヒロハタ・マーキュリーの数奇な運命と、ミュージアムが果たす役割

 

  1. はじめに

 ミュージアム。日本語で博物館と呼ばれるそれは、15世紀ヨーロッパの「驚異の部屋」に端を発する。当初は諸侯や有力貴族が世界各国から蒐集した珍品を客へと披露する場であり、個人的なコレクションに過ぎなかった。しかし18世紀になると、やがてそれらは一般に広く公開されるようになる。そのため、最も古くから存在するミュージアムのひとつ、イタリアのウフィツィ美術館は元をたどればメディチ家の蒐集物群であるし、かの大英博物館ももとは蒐集家、ハンス・スローン卿の個人的な所有物を収容した場であった。

 そんなミュージアムは、国の国宝や重要文化財を保護し、価値を可視化、あるいは少数派の声を公共圏に届けるなど、様々な役割を担う。日本でいえば、まさに国立アイヌ民族館などは、文化財を保護すると同時に、過去に生きたひとびとの声を遺し、また今を生きるひとびとの声を多くの人に届けるという重要なロールを果たしている。

 

 今回はそれらミュージアムの役割の中でも、文化を語り継ぐという側面にフォーカスし、自動車博物館、そしてそこに収蔵されたある一台のクルマを例にとって、その意義について検討する。身近にあふれていて、あくまで道具、工業製品に過ぎない自動車は、時にまるで鏡のように人々の文化、営みのありのままを映す。そんな額縁に入らない芸術品たちは、いったい何を語り継ぐのであろうか。

 

  1. ピーターセン自動車博物館

ピーターセン自動車博物館の外観。2019,MoTA,「LA最大の自動車博物館でまさかの“族車”が殿堂入り!?|アメリカで再会した懐かしの暴走族スタイルがムネアツ過ぎる」(https://autoc-one.jp/toyota/special-5004274/,2024年1月14日にアクセス)

 アメリカ、ロサンゼルスの中心街、ミッド・ウィルシャーエリア。ロサンゼルスカウンティ美術館のほど近くに、風変りな造形をした巨大建造物が鎮座している。その名をピーターセン自動車博物館。文字通り、自動車を保管・展示するミュージアムである。アメリカの自動車雑誌、「ホットロッド・マガジン」のオーナーであるロバート・ピーターセンによって創設されたその博物館は、古今東西、あらゆるクルマを取り揃えており、収容する台数は300台を超える。

 展示内容は時期によって異なり、博物館自体が所有する自動車から、企画展の際にはときに他の博物館やコレクターなどから貸与されたクルマも並ぶ。展示期間外のものは「ヴォルト」と呼ばれる地下の大規模保管庫に丁重に保管されており、これも見学ツアーなどで一般客もその目に映すことが可能だ。

 

 そんなピーターセン自動車博物館の保管車両、および展示車両の内容は非常にバラエティに富んでいる。世界初の自動車である三輪のベンツ・パテント・モートルヴァーゲンから、「フォーディズム」の語源でもある、今に繋がる大量生産手法によって作られたT型フォードといった歴史的な車両、ポルシェにル・マン24時間耐久レースにおける悲願の初優勝を与えたポルシェ917Kなど、競技シーンにおいて快挙を成し遂げた車両。他にも、誰もが知る映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場するデロリアン・タイムマシンをはじめとした、映画の撮影に用いられた車両も含まれる。しかし、興味深いのはこのような伝説級のクルマたちの中に、市販車として売り出されたのち、ユーザーの手によって改造の施された、いわゆる「改造車」も含まれているというところだ。

 

 改造車というと、日本では特に野放図、イリーガルなイメージが強く根付いているといえる。たとえばかつて多くの暴走族が駆り、街中に轟音を響かせた俗にいう「族車」や、車高が低く改造され、今にも地面に擦りそうな改造車などは、古くからヤンキー文化とともにあり、ガラスケースに丁重に飾られるような美術品とは断じて受け止められない。しかし、時として改造車は、まるでミュージアムが担うそれと同じように、文化を語り継ぐという重大な役目を果たす。少なくとも、ピーターセン自動車博物館はそう判断した。

展示されているヒロハタ・マーキュリー。著者撮影

 たとえば、ミントの車体色が目を引く、流麗なフォルムを備えたこのクルマは、1951年型のマーキュリー・クーペという。一見シンプルなマシンだが、「ヒロハタ・マーキュリー」という異名をとる伝説的な改造車であり、当時の文化を体現する、寡黙ながら雄弁な語り手、時代の生き証人でもあるのだ。

 

  1. ヒロハタ・マーキュリー

 かつて、アメリカにボブ・ヒロハタという日系人がいた。1952年、海軍を退役したばかりの彼は、本格的なカスタムカー(改造車)でロサンゼルスをクルーズすることを熱望し、まだ発売されたばかりであるマーキュリー・クーペを、白紙小切手とともに一流ショップ、バリス・カスタムズに持ち込む。自由に、制約なく、想像力のままに、出来うる最高の改造を施してくれ、という依頼とともに。

改造の施されていない51年型マーキュリー・クーペ。 WikimediaCommons(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mercury_Club_Coupe_1951.jpg,2024年1月14日にアクセス)

 依頼から数カ月を経て完成したマーキュリー・クーペは、他に類を見ない、唯一無二のカスタムカーとなっていた。目を引くのは3つの1951年型フォードグリルから贅沢に作られたフロントグリル、1952年型ビュイックから取られたサイドトリム、そして改造された「フレンチド」ヘッドランプ。ドアとトランクの角は丸く加工され、後部窓は柱を撤去、全く新しい屋根部分を代わりに備える。内装装飾にまで手が加えられており、仕上げにアイコニックな「アイスグリーン」として知られる淡い緑色に染められたそのクルマは、細部に至るまでもはや「変更されていない箇所がない」ほどの大改造が施されていた。

 

 結果としてヒロハタに請求されたのは約3500ドル、現在の価値にして3万6500ドルもの大金であった。彼はのちに雑誌の取材に、以下のように語っている。「持ち物をすべて売り払い、代金を支払うために大叔母を困らせなければならないほどだったよ。でも、それだけの価値があった。」

ヒロハタ・マーキュリーと、そのオーナーであるボブ・ヒロハタ。 2021,StreetMachine,「Hirohata Merc sold for US$1.95 million」(https://www.streetmachine.com.au/features/hirohata-merc-custom-legend-2020-movie-review,2024年1月14日にアクセス)

 これまでの改造車とは一線を画すヒロハタのマーキュリー・クーペは、モータートレンド、ホットロッドといった人気自動車雑誌に登場するようになり、コンテストにおいて前例のない数の賞を受賞する。それは全米のカスタムカービルダーに大きな衝撃と多大なる影響を与え、いつしか人々はそのクルマをこう呼ぶようになった。「ヒロハタ・マーキュリー」。

 

 ヒロハタ・マーキュリーは、その後数奇な運命を辿る。1955年には派手な金色に塗装され映画に登場、まもなくヒロハタに手放され、複数人のオーナーを経由しながら幾度とない事故と修繕を経験することとなる。カスタムの人気も次第に薄れ、1959年、中古車販売店に並べられた多くのクルマのうちの1台となっていたそれは、最終的に、ジム・マクニールという高校生にわずか500ドルという安値で売却された。しかしながら、幸運なことにマクニールはこの車の重要性を理解しており、マーキュリーは5年間彼の愛車として走り続けたのち、家庭に専念するために倉庫へと保管される。

 

 ふたたびマーキュリーが日の目を浴びたのは、実に1980年代に入ってからのことだった。当時を知るほとんどの人が、すでに失われてしまっただろうと考えていた伝説的なカスタムカーは、依然として倉庫の中で眠りについていた。しかしながら、マクニールが自動車雑誌ロッド・アンド・カスタムの編集者に連絡を取ったことで、その生存が明らかとなる。雑誌は修復に資金を提供し、掲載を条件に、マクニール自身がすべての作業を執り行うことに同意した。

7年半にもおよぶ作業の末、一時はオリジナルの状態を失っていたヒロハタ・マーキュリーは、歴史的な遺物の復活に対する賞賛と切望もあり、完全に制作された当時そのままの輝ける姿を取り戻すこととなる。そして最後の塗装の仕上げは、生前のヒロハタとは生涯を通してよき友人であったジュニア・コンウェイという男に委ねられた。まさしく画竜点睛、かつてある男が、持ちうるすべてをつぎ込んで手に入れた本物の竜は、魂をふたたび吹き込まれ、あるべき形を取り戻したのである。

 

 そうして復活したヒロハタ・マーキュリーは、2009年以降、米国内務省、そしてアメリカ議会図書館との提携プログラムとして米ハガティ財団が運営している「国家歴史車両登録簿」にも名を連ねている。このクルマは単なる改造車でなければ、工業製品の枠にもとどまらない。まさしく、その時代と文化を示す「文化財」として認められ、今なお保管されている歴史的な遺物であるのだ。

 

  1. 記されぬ文化

 ここまでは、ヒロハタ・マーキュリーという一台のクルマの半生である。以下では、そのクルマ、敷いては自動車が、後世へと語り継いでいく文化について記す。

 

 前述した通り、改造車というものは、とりわけ日本では違法で物騒なイメージが根付いている。ヤンキー、暴走族。彼らの文化は、教科書には載らず、また文献にも多くは残らない。つまるところ、「記されぬ文化」とも形容してよいだろう。

 記されぬ文化の中には、稀に人々の営みのなかで受け継がれるものもある。外套の一種、モッズコートもそのひとつだ。

 

 実は、モッズコートの「モッズ」という言葉は、イギリスのある集団、それも暴走族に由来する。1960年代、モダンジャズを愛好する集団、モダーンズ、転じてモッズは、沈滞したムードに包まれた戦勝国における感情のやり場のない若者たちであった。社会への反抗の証として彼らが選んだのは、イタリアの細いシルエットを持つスーツ、そしてこれまたイタリアの手になるスクーター、ベスパやランブレッタだったのである。

映画『さらば青春の光』の一場面、改造スクーターを駆るモッズ。 ©2006 Universal Studios. All Rights Reserved.

 モッズがスーツに身を包み、大量にミラーやライトが取り付けられた改造スクーターで街を流す際、問題になったのは英国の冷たい風と汚れ。そこで彼らが選んだのは、当時安くで手に入った、米軍の余剰品であるミリタリーコートであった。そして、次第にそれら軍用コートは、「モッズコート」と呼ばれるようになった。

 このような経緯があり、暴走族であるモッズとそのスタイルは、コートの名として今なおアパレル業界に名を残す。ゆえに世に出回るモッズコートには、ミリタリーに由来する意匠が色濃く反映されているわけだ。

 

 モッズのように、営みの中に語り継がれる記されぬ文化もある。ただ、先ほど述べたとおり、そんな例はごくまれなものだ。ヒロハタ・マーキュリーでさえも一時は忘れ去られ、倉庫の中で眠り続けていたように、ある種の文化は記されず、次第に口伝する者もいなくなり、歴史の闇に葬り去られる。

 そのような記されぬ文化を語り継ぐのが、他でもない改造車なのだ。クルマは多くを語らないが、しかし適切なメンテナンスを受けることができれば、人間よりもはるかに長く生きる。まるで小説が過去に生きた人間の筆致を生かし続けるように、絵画が時代を超えて人に普遍的な美を示し続けるように、クルマはその時代に生きた若者たちのリアル、文化を体現し続けるのだ。

 だからこそ、文化を語り継ぐモノを美しい状態で保管する装置として、ミュージアムもまた大きな意味をもつ。そして同時に、改造車を所蔵する自動車博物館をふくむミュージアムは、「記されぬ文化」をも伝えるという重大な役割までも内包するのである。

 

 余談だが、ピーターセン自動車博物館は日本における暴走族の車両、族車をも所蔵している。そのトヨタ・クレシーダ(北米におけるマークⅡ)は、最近になってアメリカ人によって制作された再現車両だが、過度に強調されたスタイルは日本の暴走族を完全にトレースしている。派手なカラーリング、車体前方下部のまるで板のようなチン・スポイラー、「タケヤリ」と呼ばれる驚くほどに長い排気管は、典型的な族車と呼ぶにふさわしい。この族車もまた、海の向こうで日本の若者の文化を残し続けてくれるだろう。

1980年型トヨタ クレシーダ。 2019,MoTA,「LA最大の自動車博物館でまさかの“族車”が殿堂入り!?|アメリカで再会した懐かしの暴走族スタイルがムネアツ過ぎる」(https://autoc-one.jp/toyota/special-5004274/,2024年1月14日にアクセス)
  1. おわりに

 以上のように、自動車、とりわけ改造車は、時代に応じた「記されぬ文化」を語り継ぐ役割を果たし、同時にそれらをもカバーするミュージアムは、国によって保護されるような民俗的な伝統文化のみならず、幅広い文化を世に遺し続けるのである。

 温故知新、という言葉がある。古典や伝統、先人の学問など、昔の事柄の研究を通して、新しい意味や価値を再発見する、という意味の言葉だ。その故きを温ねるのにも、やはり語り継ぐものの存在が必要不可欠である。これからの未来を考えるために必要な過去、そうしたものを残すために、ミュージアム、そしてそれが保管し続ける品々は、人類になくてはならない存在といえるだろう。

 

参考文献

Hagerty,「National Historic Vehicle Register 1951 Mercury Hirohata Merc」(https://www.hagerty.com/marketplace/78598943/nationalhistoricvehicleregister/743b213f-c2d4-4d15-a6de-11700e28da1f,2024年1月14日にアクセス)

 

2019,MoTA,「LA最大の自動車博物館でまさかの“族車”が殿堂入り!?|アメリカで再会した懐かしの暴走族スタイルがムネアツ過ぎる」(https://autoc-one.jp/toyota/special-5004274/,2024年1月14日にアクセス)

 

2021,StreetMachine,「Hirohata Merc sold for US$1.95 million」(https://www.streetmachine.com.au/features/hirohata-merc-custom-legend-2020-movie-review,2024年1月14日にアクセス)

 

WikimediaCommons(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mercury_Club_Coupe_1951.jpg,2024年1月14日にアクセス)

【NFSHP】 迷走期の佳作

長寿コンテンツには迷走がつきものなんだろう。刑事ドラマ『相棒』はコメディタッチのバディモノから社会派サスペンスに舵を切ったりするし、夏の風物詩であるガリガリくんなんてもはやコーンポタージュだのナポリタンだの、ホントに美味くなると思って作ってんのか、はたまたたちの悪いギャグなのかわかったもんじゃない代物を乱発している。

それはゲームでだって全く同じだ。数えるのもめんどくさくなるほどの本数が出ているレースゲームの大御所、ニード・フォー・スピードシリーズは、最近でこそカスタマイズ重視のクルマゲームとして差別化できているようにも見えるが、2000年代後半からは良く言えば多彩、悪く言えば迷走に他ならない、統一性のかけらもないタイトルを制作スタジオをとっかえひっかえしつつ出しまくっていた。ニード・フォー・スピード ホットパースート(NFSHP)もまさにその最中に産声を上げた、言うなれば迷走期の作品のひとつだろう。

アメリカ、シークレストカウンティ。カリフォルニアのボードウォークめいた海岸線から、はたまたグランドキャニオンを思わせる乾燥地帯、雪の解けない年中真冬の山岳地帯まで、アメリカの景色を全部盛りしたような欲張りな大地。そこにアクセル全開でぶっとばすのにおあつらえ向きなでっかい道路がトッピングされてるもんだから、その道路事情は言うに及ばず無法者どもによるストリートレースの呼び水となった。

どっからそんな金が沸いてくるのか、日夜行われる超高級車だらけの共同危険行為。住民たちの安全が脅かされている状況に、我らが国家権力、警察も黙っちゃいない。シークレスト群警察は違法レーサーに対抗し、インターセプター部隊に下手な一軒家よりも値の張るスーパーカーを配備しまくるという致命的に偏差値の低そうな対抗策を実施。オービスでも置いてドーナツ頬張ってりゃいいものを、アメリカンポリス十八番のPITマニューバ通り越した捨て身タックルで違法レーサーを逮捕、というか処刑する。そしてプレイヤーは、違法レーサーと警察官の身分を反復横跳びしながら、数億円規模のケイドロに興じるのだ。

クルマでやるぶつかり稽古みたいな、IQが著しく欠如した絵面に既視感を覚える人も少なくないのではないだろうか。それもそのはず、今作を開発したのは『バーンアウト』シリーズでお馴染みのクライテリオン・ゲームズ。ちょうどこの時期には今も色あせぬ名作、『バーンアウト・パラダイス』でスマッシュヒットを達成していたのもあってか、NFSシリーズの制作スタジオとして白羽の矢が立ったのだろう。

そんじゃあ『NFSHP』はNFSの皮を被った『バーンアウト』なんじゃないの、と思うかもしれない。というかこの後もう一本出たクラテイリオン製のNFSも含めて巷ではそんなふうに言われている気がするが、個人的にはそれは半分正解、半分ハズレ。『バーンアウト』と明確に違うのは、登場するクルマがすべて、現実の有名自動車メーカーの手になる実車であるということ。そしてそれとのトレードオフとして、笑えてくるまでにクルマがグッシャグシャに潰れていく『バーンアウト』特有の破壊表現が鳴りを潜めたということだ。

バーンアウト』の最大のウリこそ、野放図にクルマでライバルに体当たりして、瞬く間にスクラップを量産する爽快感だろう。破壊に夢中になりすぎて自分が壁に突き刺さっても、スポーツカーが見るも無残にペチャンコになる様を見るのもそれはそれで楽しかったりする。それがNFSHPでは、さしもの自動車メーカーには許してもらえなかったのか、お得意のダメージ描写はせいぜいバンパーが外れるくらいまでにオミットされている。

そこでクライテリオンは、本作が単なる『バーンアウト』の劣化版とならないための異なる味付けを加えた。破壊メインの爽快レースゲームとして世に出すのでなく、簡単操作でスピード感のあるカーチェイスが味わえる、アーケードゲームライクなレースゲームへと方向転換させたのである。

バーンアウト』のそれと違って、NFSHPではライバルに体当たりしても即座に破壊することはできない。それにブーストゲージが大幅に溜まるようなリターンも見られず、車両の破壊を目的とする警察側でのミッションはともかく、レーサーとしてレース中にライバルへと体当たりを働くインセンティブは薄い。

一方で、イベントによってはレーサー側、警察側ともにガジェットが用意される。後続車をパンクさせるスパイクベルト、前方の車をロックオンして電磁攻撃を繰り出すEMPなど、ちょっとしたマリオカートのような雰囲気だ。

ここまででも往年の名作アーケードゲームチェイスHQ』のようなカーチェイス要素、『マリオカート』のようなアイテムの存在などアーケードライクな味付けが目立つが、何よりも強調したいのは、車の挙動特性とコースのレイアウトの相違点である。

バーンアウト・パラダイス』でプレイヤーが運転する車は、そのどれもがクイックな操縦特性を持っていて、その反面、一部車両を除き耐久性はあまり高くなく壁や路上駐車された車への激突は即・クラッシュを意味する。加えて決まったコースはなく、オープンワールドとして構築されたパラダイス・シティの特定の場所から特定の場所へ、その道程を問わず最初に辿り着けば勝ちという無法なルール設定は、前述のクルマのデリケートさと相まって、猥雑な市街を障害物に気を払いつつ疾走し、ライバルにちょっかいをかけつつ最適なルートを探すという非常にスリリングなマルチタスク体験を生むのに一役買っていた。

かわってNFSHPでは、クルマは『バーンアウト』ほどには俊敏な動きをしない。壁に激突すればさすがにクラッシュするがある程度は頑丈だし、ドリフトもブレーキを踏むだけで簡単に実現できる、安定感あるアーケードライクな挙動だ。加えてシークレスト群の道路はやたら広く、路上駐車の類もなく、頭を空っぽにしてアクセルを踏み抜けるようなロングストレートとなだらかなカーブばかりで構成されている。

そして極めつけはCPUの接待プレイ。このゲーム、どれだけ速く走ってもレースの後半に差し掛かるくらいまではライバルは補正がかかり、猛烈なスピードで抜きつ抜かれつを演出してくる。一方で、こっちが事故ればあんまり速くない速度で待っていてくれるし、だいたいレースの後半ではオーバーテイクできるつくりになっている。結果、NFSHPはゲームをプレイし始めてすぐに、誰でも爽快感と適度な緊張感のあるカーチェイスを楽しめる一本となっているのである。

NFSHPの評価は、満場一致での好評には程遠いだろう。それまでのNFSシリーズで人気を博していた、『ワイルドスピード』に大きく影響を受けたクルマのドレスアップ要素など微塵もなく、登場車種だってその殆どがチューナーや走り屋とは程遠いスーパーカーばかりだ。他方で『バーンアウト』らしさを期待すれば、ことのほかクルマの破壊に重点が置かれていないゲーム性に肩透かしを食らいかねない。実際、当時の俺もその一人だったと思う。

それが10年も経って、なんかの特典でリマスター版を貰ったからと試しにプレイしてみると、これがなかなかどうして良くできている。もちろん完璧な作品ではないし、個人的な思い入れも、ゲームとしてのクオリティ的にも、やっぱり『バーンアウト・パラダイス』のほうがいいゲームだと思う。だけれども、NFSHPも、低く見積もっても佳作と言えるくらいの出来に見えてくる。たまにはゆるく、憧れのスーパーカーで気楽にぶっ飛ばすゲームもいいじゃないか。リマスター版には、PS版限定追加コンテンツ扱いだったあのポルシェ930ターボや、スーパーカーの代名詞・カウンタックなどのクラシックカーなどがついてくるのもウレシイ。

迷走期の佳作、NFSHP。セール常連の一本なので、ゲーセンで数回レースゲームをやるつもりで買ってみるのも悪くないんじゃないだろうか。

「ぼざろ」の複合的な聖地巡礼について

1.はじめに

講義内で、我々は様々なかたちでの「聖地巡礼」を学んだ。あのアビー・ロードをはじめとした、イギリスのビートルズゆかりの地を巡る「マジカルミステリーツアー」はまさしく音楽の聖地巡礼であり、アニメの聖地巡礼であれば、関西学院大学が位置する兵庫県西宮市は、伝説的なライトノベル及びアニメである「涼宮ハルヒ」シリーズのまさに聖地である。

「マジカルミステリーツアー」はまさしく十九世紀半ばのトマス・クックをはじめとする「大衆観光」のフォーマットであり、「涼宮ハルヒ」においては同様の観光ツアーが組まれるほか、個人での観光も盛んだ。

 国連世界観光機関によれば、観光の定義は以下のとおりである。「観光とは、個人的またはビジネスなどの目的で、日常的環境から一年以内離れて、ビジネスや余暇、その他の個人的な目的を持って主要な観光地へ旅行するものであるが、訪問した国や地域に居住して働くものは除外される」と定義されている。であれば、聖地巡礼はまさしく観光に該当すると言えるだろう。

そんな聖地巡礼であるが、それらを我々は便宜上、音楽の聖地巡礼、アニメの聖地巡礼とおおまかに切り分けている一方で、近年流行しているコンテンツでの同様のアクティビティに目を向けると、単にアニメ・漫画の聖地巡礼であるに留まらず、音楽の聖地巡礼でもあり、アニメには直接登場しない音楽バンドのそれも兼ねているように見える。このレポートでは、具体的にコンテンツの名前を挙げ、その聖地巡礼の複合的な要素について検討する。

 

2.ぼっち・ざ・ろっく!

 昨年の冬、アニメファンの間で大きく話題となったアニメが「ぼっち・ざ・ろっく!」、通称「ぼざろ」である。

「ぼっち・ざ・ろっく!」は漫画家、はまじあきが「まんがタイムきららMAX」に掲載する美少女4コマ漫画を原作とする音楽アニメだ。天才的なギターのセンスを持つが極端に内向的な少女、後藤ひとりがひょんなことからバンドを結成することとなり、紆余曲折ありつつも音楽を通じて友情を育み、成長していく物語である。

 4コマ漫画を原作としながら、アニメオリジナルの描写を交えつつ地続きのストーリーに再編したアニメは、斬新な演出から美麗な作画、完成度の高い楽曲群などが各方面で評価された。特にイギリスのゴリラズをはじめとするヴァーチャル・バンドの文法でリリースされた、作中バンド「結束バンド」の同名アルバムは上半期Billboard JAPANダウンロードアルバムチャートで首位を獲得するなど、その人気はすさまじい。

原作が4コマ漫画であり、掲載誌も同じ、そして同様に音楽がテーマであることから、あの一時代を築いた「けいおん!」に重ね合わせ現代版「けいおん!」とまで評される「ぼざろ」。その横断的な魅力は、聖地巡礼との親和性をも内包している。

「ぼさろ」の舞台は下北沢である。主人公後藤ひとりが所属するバンド「結束バンド」の活動拠点であるライブハウスSTARRYは、名前こそぼかしているものの、紛れもなくバンドマンの聖地、下北沢SHELTERがモデルとなっていることは、その風景から自明だ。他にも下北沢のどんぐりひろば公園、駅の程近くに位置するヴィレッジヴァンガードなど、作中では下北沢の各スポットが克明な描写をもって再現されている。

 下北沢以外にも「ぼざろ」の聖地は多い。バンドメンバーが観光に訪れる江ノ島、他バンドの学習を兼ねて立ち寄るバンドハウス新宿FOLTのモデルとなった新宿ロフト、少し離れて後藤ひとりの地元である横浜の金沢八景までも、数多くの場所が今や「ぼざろ」ファンでにぎわう。

 

3.「ぼざろ」と「アジカン

 ここまでで、言及しなかった重要なポイントがある。それは、「ぼざろ」は有名ロックバンド、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」(アジカン)に大きな影響を受けているということだ。

 「結束バンド」のメンバーの苗字はみな「アジカン」から取られており、ベースの山田リョウは山田貴洋、ギターボーカルの喜多郁代は喜多健介など、その全てが一致する。主人公、後藤ひとりに至っては、タイトルにまでなっているあだ名の「ぼっちちゃん」が、「アジカン後藤正文のあだ名である「ゴッチ」とニアミスするなど、そのオマージュは徹底している。

 他にも、アニメ各話のタイトルはすべて「アジカン」の楽曲名であるし、最終話に至っては「アジカン」の楽曲である「転がる岩、君に朝が降る」を後藤ひとりがカバーした音源が挿入されるなど、もはやオマージュと呼ぶより、公認のコラボと言ってよい。

 そんな「ぼざろ」であるから、先ほど述べた聖地までもが、おしなべて「アジカン」とリンクしている。後藤ひとりの実家がある横浜、金沢八景駅関東学院大学の最寄り駅であるが、「アジカン」が結成されたのは同大学においてであるし、下北沢SHELTERは「アジカン」が初めてワンマンライブを行った場所だ。ライブハウス新宿LOFTにおいては「アジカン」主催の音楽フェスNANO-MUGEN FESの初回が催され、江ノ島はそのまま、江ノ島エスカーの名を冠する楽曲を「アジカン」は歌っている。

 メンバーの名前も同じ、そして聖地も同じ。であれば、「ぼざろ」の聖地巡礼は、まるで文献の孫引きの如く「アジカン」の聖地巡礼に等しい。最初に述べたように、音楽には音楽の聖地巡礼が、アニメにはアニメの聖地巡礼があるが、「ぼざろ」のそれは、「アジカン」と重なることでその両方の性質を併せ持つこととなる。さらに細かく言えば、「ぼざろ」の聖地は結束バンドの面々が楽曲のインスピレーションを得た場でもあり、作中曲ゆかりの地でもあるので、「ぼざろ」聖地巡礼はヴァーチャル音楽聖地巡礼であり、アニメ聖地巡礼であり、そして音楽聖地巡礼である。

 アニメファンがアニメの聖地巡礼のつもりで場所を訪れると、気付けば結果的にロックバンドの聖地巡礼も果たしていた。そんな状況が起きうる「ぼざろ」の聖地巡礼は、中々に興味深いケースといえるのではないだろうか。

 

4.おわりに

 考えてみれば、アニメは現実社会の音楽や映画など、何かしらのコンテンツをモチーフとすることは少なくない。一方で、登場人物の名前から登場する場所までそのすべてを大胆にオマージュする例はそう多くないのではないだろうか。もちろん、オマージュ元が映画やドラマであれば、同じように物語を綴る媒体である都合、あまりにも極端な模倣は盗作とみなされてもおかしくない。しかし、「ぼざろ」がリスペクトを表し参考とする音楽バンドは、そのコンテンツとしての在り方が映画-アニメ間ほど被っていない。アーティスト自身が公言はしないものの、アニメファンである歌手がアニメの内容にかなりリンクする歌を歌うことがあれば。逆も然りであったりする。このような作品という形をとったファンレターが実現しているのは、アニメと音楽のゆるく寛容な関係性があってこそかもしれない。観光とは少しずれるが、その関係性について研究してみるのも興味深いものとなるように思う。

 総括して、観光の中でも近年とりわけ流行している聖地巡礼は、実際に行って楽しめるだけでなく、研究対象とするにもおもしろいものであると感じた。普段我々が嗜むコンテンツを、いちユーザーとして堪能するだけでなく、ときにアカデミックな視点から考察することは、今まで気づかなかったものを発見するにおいて有意義であるといえるのではないだろうか。

アウトサイダーアートとして捉える「族車」

1.はじめに

日本の自動車文化は、海外ではもはや芸術のような扱いで受容されているといってよい。たとえば煌びやかな装飾が施されたトラックである「デコトラ」は、高級ブランド、グッチの広告ビジュアルで大胆にフィーチャーされ、国を挙げた祭典、パラリンピックの開会式にまでも登場したことは記憶に新しい。バッグで有名なコーチも、アイコニックなトヨタ・スプリンタートレノ、俗にいう「ハチロク」をコマーシャルに抜擢、ロサンゼルスのピーターセン自動車博物館では、「BOSOZOKU」のサンプルとしていわゆる族車が展示されるほどである。

 

講義内において言及のあった「アウトサイダーアート」とは、直訳である「部外者の芸術」の文字通り、もっぱら芸術に関して教育を受けたことのない人々による作品群を指す。

であれば、それがもともとは大量生産された工業製品であれ、思い思いの改造が施された暴走族の駆る車たち、つまるところ族車は、まさに「アウトサイダーアート」に該当するといってよいのではないだろうか。

そんな族車は、決して無秩序な改造様式に従って構築されているわけではない。大胆なデフォルメ、極端な誇張、オリジナリティに溢れながらも、その根底には自動車マニアの憧れ、レーシングカーの文法も確かに含まれている。このレポートでは、暴走族の車たちが持つ要素を一つ一つ解体・吟味しつつ、その本質に迫る。

 

2.グラチャン族の誕生

1971年。静岡県に位置する日本随一のサーキット、富士スピードウェイにて、富士グランチャンピオンレース(グラチャン)が開始する。同サーキットで催された日本グランプリと呼ばれる自動車レースは60年代に絶頂を迎えたものの、70年に中止。グラチャンは、その後釜として企画されたのである。

富士スピードウェイの目論見通り、グラチャンは大きな人気を博す。そこでは完全なレース用設計のレーシングカーのみならず、市販のスポーツカーに改造を施したレーシングカーも混走しており、自分の所有するものと同型の車がサーキットで活躍する、その雄姿を楽しみに富士を訪れる観客も少なくなかった。やがて観客の一部は愛車にレーシングカーを模した改造を施しはじめ、グラチャンの度にサーキットへと集結しだす。そうした車好きたちは次第に「グラチャン族」と呼ばれはじめる。グラチャン族の誕生である。

 

 

3.「族車」の転換点

一目でそれとわかる派手なカラーリング。低い車高、特異な形状。族車といえば、まさにそのようなイメージがあるように思う。実物を見たことが無くとも、アニメや漫画、あるいは駅などに掲示された、違法改造撲滅を掲げるポスターのイラストなどで一度くらいは目にしたことがあるだろう。そんなステレオタイプな族車イメージに程近い改造が普及したのは、これまた自動車レースの影響が大きい。

前述した富士グランチャンピオンレースの前座となるサポートレースとして、1979年、富士スーパーシルエットシリーズがはじまった。主役となるのは特殊プロダクションカーと呼ばれるレーシングカーたちで、それらは市販乗用車の車体をベースとしてはいるものの、大幅な改造とレース専用のエンジンなどが伴う。まさに「フォーミュラカー」のような純粋なレーシングカーに、市販車のシルエットが残ることから、シルエット・フォーミュラ、スーパーシルエットと呼称されるようになる。

2021, Racing on,「【忘れがたき銘車たち】ターボ軍団の番長、トミカ スカイラインシルエット」(https://www.as-web.jp/racing-on/686502 2023年7月6日にアクセス)

 

百聞は一見に如かず、ではないが、スーパーシルエットを代表する車両、トミカ スカイラインシルエットを見れば、それがまさに「族車」のお手本となったことが即座に理解できるだろう。地を這うような低い車高、車両前方下部の板のような突起(チン・スポイラー)、極端に拡張された車幅、リアには大型のウイング。今見ても特徴的で魅力のあるシルエット・フォーミュラは、当時の観客にも当然鮮烈な衝撃をもって迎えられた。そして抱いた憧憬をそのままに、グラチャン族はスーパーシルエットシリーズが始まってからというもの、こぞってそのスタイルを模倣し始めた。

以上が、俗にいう「族車」が生まれた経緯となる。

 

4.憧憬と誇張

族車がおおまかにスーパーシルエットの外観的特徴を参考とする一方で、しかし見比べてみるとやはり単純なコピーではないことがわかる。彼らは憧れを愛車に落とし込んだうえで、あえてホンモノから極端な誇張、目立つための全く新しい要素などを織り交ぜている。ここからはパーツ単位で改造箇所を切り分けていき、レーシングカーからのレファレンスである部分とオリジナルの部分を分析していく。

まず前方から見ていこう。バンパー下部に位置する板のようなチン・スポイラーは、チンの意味する通り、クルマの顔、その顎部分に存在するスポイラーである。顔の下部に張り出した板状の物体であることから「デッパ」とも呼称されるそれは、スーパーシルエットの持つバンパー下半分が一体化したフロントスポイラーとは似ても似つかない。レーシングカーの擁するパーツであるから、当然フロントスポイラーは空力的なアドバンテージを得るために考えて作られたものであるし、空力性能に関して現在ほど洗練されてはいないとはいえ、実際確かに効果があったという。

一方で族車のもつそれは、見た目をまねたうえで、通常ではありえない長さへと延長されており、むしろ走行性能にマイナスのものである。これは彼らが走行性能というより、いかに目立つか、どれほど派手なのかというドレスアップの意味合いを強く持って改造していた証左といえるだろう。

次にボンネット部分に目をやる。族車によく見られるのは、先ほどの「デッパ」同様に大きく延長されているボンネット、通称「ロングノーズ」である。ロングノーズという言葉はふつう、自動車業界ではボンネットがボディの占める割合の多い車の形状それ自体を指すが、同じ言葉でありながら、族車の文化では専ら前方向に伸びたボンネットのことを指す。これはスーパーシルエットには見られない改造で、族車のオリジナルとする文化であるといってよい。もちろん理由は目立つため、あるいは車で目に位置するライトの上部分が隠れ、目つきが悪くなる=ワルな雰囲気が出ることを狙っての改造であるといわれる。

そしてボディ全体、やはりところどころに誇張はあるものの、そのボディワークはやはりスーパーシルエットをまねている。横幅が拡張されているのは、レーシングカーにおいて通常より太くグリップ力のあるタイヤを履くための措置であるが、族車も同様に太いタイヤを履くことが多いので、珍しくここはレーシングカーと族車で目的が一致しつつ、実際に役割も果たしているといえる。また、これは個体によってまちまちであるが、これまたスーパーシルエットをまねた大型のウイングが後部に鎮座していることも少なくない。

最後に排気管、マフラーに目を向ける。族車に多く存在するのは、読んで字のごとく「竹槍」のようなとてつもなく長い「竹槍マフラー」である。目立つだけでなく、加工技術を見せつけるために時に星型などの形状をとるそれは、外見的主張以外のメリットはもたず、むしろデメリットの方が圧倒的に大きい。排気効率は悪くなりパワーダウンを招くうえ、当たり前のように違法改造である。しかしこれほどまでに「族車」の性格を表している部品もまた、竹槍以外に存在しないのではないだろうか。とにかく目立つ。性能は二の次。もはや潔い彼らのスタイルは、ある種の突き抜けたアート根性とも受け取れる。

 

5.おわりに

総合して、「族車」の外見は自動車レースで活躍するレーシングカーの影響を大きく受けているものの、その模倣には誇張が含まれているといえる。速さを求めて異形となったレーシングカーと、その形状を憧れから真似、目立つための装飾をさらに付け加えた族車では、やはり目指すところから違う。レーシングカーが備えるのはまさしく機能美であり、ただひたすらにスピードを突き詰める過程で、結果として見る者に強烈な印象を与えるような容貌となるに至ったのだと言える。一方で、ただ目立つ、憧れを形にするという目的だけをもって改造された族車は、車という実用品とふつう相反する観念が持ち込まれているという意味で、稀有で興味深い存在であるといえる。

アウトサイダーアートの代表的な人物に数えられるヘンリー・ダーガーは、自ら絵を描くことをせず、しかしまるでコラージュ・アートのように雑誌の切れ端や絵本の挿絵を繋ぎ合わせ、物語を紡いだという。既製品の組み合わせも時にアートになり得るのであれば、「族車」もまた工業製品である車をベースとしていながら、アートに数えることができるのではないだろうか。

 

参考文献

2021, Racing on,「【忘れがたき銘車たち】ターボ軍団の番長、トミカ スカイラインシルエット」(https://www.as-web.jp/racing-on/686502 2023年7月6日にアクセス)

衣食住足りておいて

衣食住足りておいて、"何者かになりたい"なんて贅沢な話だ。食うや住むに困るのが当たり前の時代なんてほんの数百年前だし、今この瞬間も現在進行形でどこかで苦しんでいるやつがいる。だのに僕はこのところずっと、アイデンティティとかそういう類のものに拘泥している。

 

レーゾン・デートル、存在意義だとか存在理由みたいなものには悩んでいない。誰に望まれなくても僕が生きたければ生きてやるつもりだし、むしろ僕がいないほうが世の中うまく回るんでも、それでも居座ってやるつもり。だってスギは花粉撒き散らして大勢に嫌われているくせに、素知らぬ顔で光合成だののサイクルを今だって繰り返している。なら僕だって、僕以外のすべてにこいつ消えねえかなとか思われたって消える必要はないだろう。

 

けれどアイデンティティの領分で、自分がなりたい"何者か"がそういう人間なんならば、僕は誰かに存在を望まれる必要がある。存在理由はいらないが、自己実現欲求は満たしたい。たちの悪いことにさしあたってなりたい"何者か"の一つが存在を望まれる人間な気がしているので、僕はその必要性から逃れられない。

 

自分とは何か。案外僕の中ですでに、その答えは大まかに出ている。自己分析に用いられる、ジョハリの窓というものがある。自分を4つに分けるやつ。内訳は、「自分も他人も知っている自己」、「自分は知らないが他人は知っている自己」、「自分は知っているが他人は知らない自己」、「誰も知らない自己」の4つだ。

このうちの2つ、他人に知られる範囲の自己こそが自分だと思っている。仮に僕の中で僕は聡明で思慮深くて寛大で...みたいに思っていたって、他人がそう思っていないんなら、少なくとも社会の中ではそうじゃない。翻って僕が短気で短絡的で考えが浅いと誰かに思われているなら、どれだけ否定してもそれが僕だろうし、少なくともその誰かの中ではそうだ。結局、周囲からの印象が社会の中での自分であって、社会から逃れることなんて出来やしないんだから、基本的にパブリックイメージの自分こそ、この人生における"自分"のはずだと思う。

 

そこで、僕は他人に知られる範囲の"自分"を、なりたい"何者か"に近づけたい。そう思って、このところいたずらに手足を動かしてのたうち回っているのだけど、当たり前だがそううまくはいかないのでこまっている。それはもう滅茶苦茶に尊敬されたい。筋を通した生き方をしたい。憧れられたいし、羨ましがられるくらいになりたい。愛されたい。ずーっとその考えに固執して神経衰弱気味で、その出口は一向に見つからないし、むしろ遠ざかっていってるようにすら思う。演じようとすればするほどわかってきてしまう。演じない素の自分は、軽薄で尊敬には程遠い人間なんじゃないだろうか。わかりたくないし認めたくもないけど、もうそうとしか思えないのが最近の僕である。

 

自分の存在理由を他人に求めるやつがいる。生きてていいって思いたい、そのために誰かに必要とされたい、みたいなロジックのやつ。それと似たようなものだと思うけれど、そのほうが幾分マシな気がする。僕は"なりたい自分"が欲しいがために、他人をダシにしているようなものだから。そういう思考のせいで、当面は自己嫌悪で忙しい。

 

表題に戻る。なんて贅沢だろう。僕は食う寝るに困っていないし、恵まれすぎなくらいだ。ここまで来ると思い上がり甚だしいけれど、けっこう人生うまくいっているほうな気までする。けれど本当に苦しい。僕は何者かになりたい。もう20にもなるのに、いまだそこから抜け出せずに頭を抱え続けている。たすけてくれ!

"暴れる力"で夏を乗り切れ!今見たい暴力映画2選

まだ7月初めだというのに暴力的な日差しが照りつける2022年、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

僕はクソ暑い毎日にクソ辟易しつつもクソ元気です。

なぜなら暴力映画を摂取しているから。

──────𝑽𝒊𝒐𝒍𝒆𝒏𝒄𝒆暴力

暴力は人類とは切っても切れない関係にあり、いわば人類あるところに暴力あり、ゆえに悲しいかな、文明化により暴力などとうに排除されたかのように見える現代社会においてさえ、不可視化された構造的暴力が蔓延しております。イヤな世の中だ。

 

言うまでもなく、モチロン現実世界リアルでの暴力はご法度ですし、ナンセンスです。というかナンセンスであってほしい

ですが我々は人間、虚構フィクションに夢見る生物────せめて映画の中でくらい、タブーの暴力をおもくそ楽しんでしまいましょう。

 

ということで今回の記事は、

"暴れる力"で夏を乗り切れ!今見たい暴力映画2選

です。

 

 

観るバイオレンス・FPS!全編一人称視点の純粋暴力映画

「ハードコア」

令和4年、一番アツいゲームジャンルといえば間違いなくFPS

 

今や将来我が国の未来を担う小学生から僕と違ってキラキラした生活を送る大学生に至るまで、誰もがプレステで、PCで、スマートフォンFPSに夢中です。

もはやApexは義務教育であるため、傘開いて蹲りながら「ダ゙ヴン゙じだ!゙!゙早゙ぐ助゙げろ゙!゙!゙」なんて叫べば老若男女誰しもにウケますし、「俺゙ば、゙バン゙ダー゙だ゙!゙!゙!゙」とか呻けば少なくとも僕の周りの友人は鼻で笑います。

 

特にeスポーツ関連の盛り上がりようはすさまじく、人気FPSであるValorantの大会なんかは開催の度にTwitterのトレンドに浮上してくるくらいです。僕がオンボードのノートPCで無理して無料FPSしてた時代とはえらい違いだ。

 

閑話休題。そんなFPSを、それもうんと暴力的なやつを、まるまる一本の映画にしてしまったのが今回最初に紹介する「ハードコア」。

 

FPSを映画に落とし込むという発想それ自体は、実は新しいものではありません。

現に元祖FPSと称えられる暴力ゲー「DOOM」が2005年に映画化された際には、ほんの数分間のシーンだけとはいえ、ゲームと全く同じ一人称視点で物語が進行するという最高のファンサービスが盛り込まれていました。

では「ハードコア」はどこがスゴイのか。それはひとえに"全編"一人称視点の映画であること。

「ハードコア」は最初から最後まで、ずーーーっとFPS。そのうえ最後まで暴力シーンたっぷりの某チョコ菓子ライクな満足度バツグンのテイストに仕上がっております。その点ハードコアってすげえよな。

 

そもそもこの映画が製作された発端として、本作の監督を務めたイリヤ・ナイシュラーが過去に手掛けたロックバンド「Biting Elbows」のミュージックビデオ、それに同様の撮影手法が用いられ、話題を集めたということがあります。

百聞は一見に如かず。それを実際に見ていただければ、「ハードコア」がどういった作品かもある程度掴めるのではないでしょうか。

www.youtube.com

「ハードコア」がこれまたスゴイのは、そんな元ネタとなったMVのエッセンスが映画化に伴い薄くなるのでなく、逆に濃くなってお出しされた点。

短編映画が長編化するケースは案外少なくなく、しかし予算や納期や大人の事情が絡み合い輝いていた部分が希釈され...「アレは短編だから良かったんだ」といったネガティブな批評を受けることもこれまた少なくありません。

しかしイリヤ・ナイシュラーは違った。この男、激ウマ・カル〇スウォーターで人を惹きつけ、今度は1ガロンで希釈前のカル〇ス原液を出してきおりました。映画化に伴い尺が伸びたのはもちろん、演出はリッチになり、ゴア表現はマシマシになり、お色気描写も増え...要は全盛りです全盛り。

人類は暴力とともにあり、FPSもまた暴力と共にありました。つまり全編FPS暴力映画である「ハードコア」は、いわばフィルムという形を採った一つの巨大な、FPSという文化へのアンセムなわけですね。

 

そしてなにより、この類まれな映像体験を新鮮なかたちで楽しんでいただきたいので詳細は省きますが...誰もが知っているロックバンドQUEENのある楽曲が、最高の形で流れる作品でもあります。

 

ここまで映画のあらすじとかに一切触れていないじゃないか、と感じた諸兄、ご名答。ですがこれは僕が悪いのではなく、ストーリーとかそっちのけにひたすらに暴力的で、ひたすらにオモシロい「ハードコア」、敷いてはそんなサイコーの映画を作ったイリヤ・ナイシュラー監督に責任がある。

実際ストーリーも一部おもしろい仕掛けを孕んでいるのですが、それよりなにより映像面を見てほしい。もはや映画というより"体験"なんです。見て。

見ましょう、「ハードコア」。そんでQUEENといえば、Don't Stop Me Nowといえば?と聞かれたとき、出る回答がライブエイドだとかボヘミアン・ラプソディだとかフツーの返しな凡人でなく、「ハードコア」だ!と胸を張って言うような拗らせたおたくになりましょう。僕みたいに。それで友達を失くしTwitterで叫びましょう。僕みたいに。

 

 

ニコラス・ケイジが強すぎて怖くない

「ウィリーズ・ワンダーランド」

絶妙に不気味な見てくれのアニマトロニクス(動物型ロボット)が客を楽しませるレストラン「ウィリーズ・ワンダーランド」、その夜間清掃をひょんなことから任されることになったニコラス・ケイジ

しかし店内に放置されたアニマトロニクスは魂の宿る殺人ロボットで...そんなどっかで聞いたようなあらすじで始まる映画、それが「ウィリーズ・ワンダーランド」。

 

 

もう隠す必要もないでしょう。この舞台設定は明らかに「Five Night At Freddy's」のそれです。清掃という意味では「Viscera Cleanup Detail」かも。そんな有名ホラゲーの文脈で始まる本作ですが...

 

とにかくニコラス・ケイジが強すぎる。

強い。尋常じゃなく強い。喋らないし、勤勉に掃除をするし、休憩時間にはしっかり休憩するし、強い。

本来であればホラーな状況がニコラス・ケイジが強すぎて本当に怖くない。哀れな殺人人形たちはケイジの残虐ファイトの餌食となり「モータル・コンバット」のフェイタリティ、あるいは「DOOM」のグローリー・キルよろしく粉みじんに破砕されます。

 

いちおうケイジとその犠牲者たち以外にも登場人物はいます。ケイジをハメた保安官に、ホラー映画のテンプレートであり、お約束に違わずこれまたテンプレート的行動をとる傍ら、でもなんだか絶妙に良識がある若者グループ。

 

ですが彼らはケイジ無双を引き立てるパセリでしかありません。この映画の魅力はホラー映画・あるいはゲームの定番がケイジによる暴力により完全破壊されるところにありますから。途中からロボット・若者・保安官すべてにドン引きされるケイジが面白い。そりゃ引くわ。

こうして文章に書いているだけでもひたすら力業な「ウィリーズ・ワンダーランド」ですが、上映時間はわずか88分。1時間半に胃もたれするほどのカロリーが詰まったスニッ〇ーズのような映画に仕上がっています。

とにかくものすごいテンポで話が進み、ケイジにより全てが蹂躙され終了し、ホラー映画にありがちな意味ありげなラストとかもなく本当にスカッと終わるストロングスタイルにはいっそ清々しささえ感じます。

完全に需要を理解している。これは真面目に観る映画じゃありません、頭を空っぽにしてゲラゲラ笑うためのインスタント・暴力のような映画です。ここまで記事を読んでくれるような人には間違いなくピッタリですね。ケイジの暴力で心底スカッとした気分になりましょう。スカッとケイジ。

 

以上で今回の記事は終わりです。ホントは3選にするつもりだったんですが、めんどくさくなりました。あえて2選とすることで暴力を表現できると思ったからですね。

嘘です。飽きました。また気が向いたら何か書くので、そん時はよろしくお願いします。

 

クソ暑い夏、暴力映画で猛暑をネジ伏せろ!

ではまた。

 

『恋は永遠』MVと『遠近法を使ってヌードを描くアーティスト』

www.youtube.com

このMVはストリップ劇場である川崎ロック座を舞台とし、美術史で長年描かれてきたそれと同様に、女性を見られる側、男性を見る側として描き切っている。しかし、その描き方には典型的な美術絵画との差異が認められる。

中世美術において男性は文化的・精神的な存在として扱われる一方、女性は自然的で肉体的な存在とされる。しかし、『恋は永遠』のMVに映るのは、舞台上で裸体を披露する女性と、それを見物するどこか冴えない姿の男性たちである。見る・見られるの構図は絵画と共通しているが、同じように肉体的な女性・文化的な男性の対比が見受けられるかといえば、そうではない。ストリッパーの女性を肉体的存在と受け取ることはできるものの、男性たちの容姿・態度はどうにも精神的には見えない。寧ろ、ストリッパーという職業としての役割をあくまで職業人として果たし切る女性は、客の男性らよりも文化的にさえ映る。

 

f:id:F4LFER:20210602004730p:plain

 

MVはまず、ストリップ劇場に向かう女性の姿を映すところから始まる。彼女は筋金入りの銀杏BOYZファンのようで、着用するヘッドフォンの意匠から、楽屋に積み上げられた書籍に至るまで、隅々からその熱意が伺える。彼女は口紅を塗り、華やかな衣装に身を包んで舞台に立つ。ここでようやく、『恋は永遠』が流れ始める。ここまでで2分、動画全体から見ておよそ3分の1にもなる時間が経過している。MVでありながら表題の曲に入るまでを長く取り、大きく時間を割いてまでこのようなシーンを挟みこんだ意図は、ストリッパーである彼女を、あくまで等身大の人間として描くためではないだろうか。

ストリップ劇場は紛れもなく非日常の空間で、見る・見られるの極致ともいえる場所である。しかしそこで働き、性の対象として目を向けられるストリッパー、彼女らにも日常は確かにある。彼女らにとっては非日常が日常であるかもしれないが、彼女らは我々と同様に趣味を持ち、同様に音楽を愉しみ、同様に泣き、同様に笑い、同様に悲しむ。彼女らはただ性的関心を向けられるだけの存在でなく、我々と同じ日々を生きる同じ一人の人間であること、それを示すための長々とした2分間なのである。

f:id:F4LFER:20210602005037p:plain


次に男性に目を向ける。彼らは金を払って女性の裸体を見物しに来た、見る見られる関係の見る側にあたる見物客である。MVの女性を嘗め回すようなカメラワークは、恐らく都度映される彼らの視線そのものであろう。エロスからなる見たいという欲求に忠実に、女性の裸体に目を向け笑みを浮かべるその姿は、芸術を鑑賞する文化的なそれとは似ても似つかない。己の欲求に忠実な面で、文化的というより寧ろ肉体的とさえいえる。そんな彼らは華やかな衣装に身を包む女性とは対照的に、見るものにどこか地味な印象を与える。チェキに映る眼鏡をかけた男性や手をたたく無精ひげの男性、チェックのシャツを着た男性。総じてどこにでもいそうで、冴えないイメージの男性ばかりである。

 

f:id:F4LFER:20210602005131p:plain

 

ここで注目したいのが、観客の男性の表情である。ストリップが行われている間、彼らは楽しげに手を叩き、まるで子供のような笑みを浮かべている。しかし対照的にMVの最後、劇場を去る彼らの表情はくたびれていて、どこか悲しげな面持ちを見せる。中には仕事帰りであろうか、スーツを着た男性の姿も見受けられる。恐らく、彼らは日常に疲れている。そして、ストリップ劇場という束の間の非日常に楽しみを見出している、現代に生きる一人の人間なのだ。途中映るチェキに書かれた「いつも応援ありがとう」「今日も応援ありがとう」の文字、そこからわかるのは、彼らは劇場に足繁く通っているいわば常連客の類であること、すなわち彼らは日常の中に、一種の清涼剤としてストリップを求めているということだ。


ストリップ劇場という単語に嫌悪感を覚える人も、決して少なくないだろう。男女平等が掲げられ、セクシャルなコンテンツを排除するのが時流である昨今、ストリップはおおよそ時代錯誤な代物であるかもしれない。しかし、だからこそ、このMVの舞台としてストリップ劇場が選ばれたのかもしれない。

 

f:id:F4LFER:20210602005240j:plain


MVにおいて、男性は見る側で、女性は見られる側というのは徹底している。見られる側であるから女性は口紅を塗るし、男性は間違いなく女性を性的に見ている。時代に反する描写に溢れているかもしれないが、一方で中世美術的な「芸術を鑑賞するには高い知識と教養が必要であり、女性にはその能力は備わっていない」という価値観のもと生まれる、文化的・精神的な男性と自然的・肉体的な女性という構図はこのMVにはない。現に女性が音楽という芸術を楽しむさまが描かれているし、男性は裸体に喜びの表情を見せている。これは『遠近法を使ってヌードを描くアーティスト』に描かれた、無防備な女性と絵に集中する男性とは対照的なものだ。つまりこのMVは、一貫して男性が見る側、女性が見られる側として描きつつも、ある種対等に見る側と見られる側を描いた作品ともいえるのではないだろうか。