毎日ウホウホ

森の賢者になりたい

衣食住足りておいて

衣食住足りておいて、"何者かになりたい"なんて贅沢な話だ。食うや住むに困るのが当たり前の時代なんてほんの数百年前だし、今この瞬間も現在進行形でどこかで苦しんでいるやつがいる。だのに僕はこのところずっと、アイデンティティとかそういう類のものに拘泥している。

 

レーゾン・デートル、存在意義だとか存在理由みたいなものには悩んでいない。誰に望まれなくても僕が生きたければ生きてやるつもりだし、むしろ僕がいないほうが世の中うまく回るんでも、それでも居座ってやるつもり。だってスギは花粉撒き散らして大勢に嫌われているくせに、素知らぬ顔で光合成だののサイクルを今だって繰り返している。なら僕だって、僕以外のすべてにこいつ消えねえかなとか思われたって消える必要はないだろう。

 

けれどアイデンティティの領分で、自分がなりたい"何者か"がそういう人間なんならば、僕は誰かに存在を望まれる必要がある。存在理由はいらないが、自己実現欲求は満たしたい。たちの悪いことにさしあたってなりたい"何者か"の一つが存在を望まれる人間な気がしているので、僕はその必要性から逃れられない。

 

自分とは何か。案外僕の中ですでに、その答えは大まかに出ている。自己分析に用いられる、ジョハリの窓というものがある。自分を4つに分けるやつ。内訳は、「自分も他人も知っている自己」、「自分は知らないが他人は知っている自己」、「自分は知っているが他人は知らない自己」、「誰も知らない自己」の4つだ。

このうちの2つ、他人に知られる範囲の自己こそが自分だと思っている。仮に僕の中で僕は聡明で思慮深くて寛大で...みたいに思っていたって、他人がそう思っていないんなら、少なくとも社会の中ではそうじゃない。翻って僕が短気で短絡的で考えが浅いと誰かに思われているなら、どれだけ否定してもそれが僕だろうし、少なくともその誰かの中ではそうだ。結局、周囲からの印象が社会の中での自分であって、社会から逃れることなんて出来やしないんだから、基本的にパブリックイメージの自分こそ、この人生における"自分"のはずだと思う。

 

そこで、僕は他人に知られる範囲の"自分"を、なりたい"何者か"に近づけたい。そう思って、このところいたずらに手足を動かしてのたうち回っているのだけど、当たり前だがそううまくはいかないのでこまっている。それはもう滅茶苦茶に尊敬されたい。筋を通した生き方をしたい。憧れられたいし、羨ましがられるくらいになりたい。愛されたい。ずーっとその考えに固執して神経衰弱気味で、その出口は一向に見つからないし、むしろ遠ざかっていってるようにすら思う。演じようとすればするほどわかってきてしまう。演じない素の自分は、軽薄で尊敬には程遠い人間なんじゃないだろうか。わかりたくないし認めたくもないけど、もうそうとしか思えないのが最近の僕である。

 

自分の存在理由を他人に求めるやつがいる。生きてていいって思いたい、そのために誰かに必要とされたい、みたいなロジックのやつ。それと似たようなものだと思うけれど、そのほうが幾分マシな気がする。僕は"なりたい自分"が欲しいがために、他人をダシにしているようなものだから。そういう思考のせいで、当面は自己嫌悪で忙しい。

 

表題に戻る。なんて贅沢だろう。僕は食う寝るに困っていないし、恵まれすぎなくらいだ。ここまで来ると思い上がり甚だしいけれど、けっこう人生うまくいっているほうな気までする。けれど本当に苦しい。僕は何者かになりたい。もう20にもなるのに、いまだそこから抜け出せずに頭を抱え続けている。たすけてくれ!