毎日ウホウホ

森の賢者になりたい

ゲームにおける「自由度」とは一体何か?オープンワールドと関連付けて考える。

「自由度」って、何?


最近、インターネット上のゲーム界隈でよく耳にする単語がある。「自由度」だ。ある時は、ゲームをレビューするにあたっての評価の材料として。ある時は、理想のゲームとはどのようなものか?といった議論の中で。
しかし、この言葉の定義は非常に曖昧である。そこで私は、過去の様々なゲームと関連付けながら、「自由度とは何か?」という議題に対する見解を示したいと思う。

「自由度」と「オープンワールド

f:id:F4LFER:20180418212438j:plain*1

一般的に、自由度が高いと評されるオープンワールド型ゲーム。そして、オープンワールドゲームの代表格と言えるのが、Grand Theft Autoシリーズだ。まずはその最新作、Grand Theft Auto Ⅴ(以下、「GTAV」と呼称)を例に挙げて、一般的な「自由度が高いゲーム」とは何かを模索するとしよう。
GTAVは、ご存知GTAシリーズの最新作で、広大なマップ、美麗なグラフィック、魅力的なストーリーを併せ持ったAAA級のゲームだ。特筆すべきは、まるで現実のような街並みを舞台に、とにかく多種多様なアクティビティを楽しめる点だろう。チュートリアルこそあるものの、それが終われば後は自由だ。まるで映画の様な素晴らしいストーリーミッションを楽しむのは勿論、車に乗り込んで街を気ままにドライブしても良いし、ゴルフやテニス等様々なミニゲームを楽しんでもいい。銃を乱射して暴れまわることさえ、この緻密に構成された仮想空間では許される。

f:id:F4LFER:20180418213047j:plain*2
こうして魅力を羅列してみると、改めて見えてくるがその自由度の高さだ。異常ともいえる作りこみに裏打ちされた凄まじいクオリティ。用意された舞台で、何をしても咎められることは無い。しかし、「自由度」を念頭に置いてプレイすると、思いの外「自由」とも言えない。

GTAVのみならず、オープンワールドゲームにおいては、予め用意されたミッションの解決策は一つだけだ。指示された方法で、敵を始末し、車を盗む。そもそもミッションも、ゴルフと同じくして広大な箱庭のアクティビティの一つであるのだから、当然のことではあるが。
また、プレイヤー自らが決断し、それがストーリーに影響することも一部を除き皆無である。つまり、ロス・サントスという巨大な箱庭は、探索やドライブ、ストーリーミッションを楽しむことが出来ても、あくまでメインストーリーの舞台に過ぎない。例えるなら映画のセットのようなものだ。直接プレイヤー、及びプレイヤーキャラクターが街に干渉することは不可能である。
しかしそれを差し引いても、広大な街に沢山のアクティビティ、多種多様な乗り物が用意されているのだから、「自由度が高い」と言えることに変わりはない。では、ミッションの解決策、プレイヤー自身のストーリーへの干渉といった角度から見て「自由度が高い」と言えるFallout3について考えてみよう。

「自由度」と「ロールプレイング」

Fallout3は、核戦争後の世界を舞台としたRPGだ。主人公は核戦争前に造られた核シェルター、Vault101に生まれ、その後、危険な外の世界に父を探すべく旅立つこととなる。f:id:F4LFER:20180418212659j:plain

*3


本作が「自由度が高い」と評価される所以は、キャラクタークリエイトにある。性別も、外見も、能力も、全てプレイヤーが決定することができる。さらに、プレイヤーキャラクターが話すことは無い。NPCとの会話では、基本的に複数ある選択肢を選ぶと、会話が進む方式だ。つまり、キャラクターの性格までも、プレイヤーが想像し、架空の人物を創造できるというわけだ。
「ロールプレイング」とは直訳すると役割演技だ。一般的なロールプレイング・ゲームであれば、主人公は容姿、性格共に固定され、主人公という与えられた役割をプレイヤーはこなす、即ち役割演技をすることとなる。しかしFallout3では、その「役割」は自ら創造したものとなる。そのため、没入感はなおさらだ。

f:id:F4LFER:20180418213318j:plain

*4
まず、プレイヤーは主人公の人物像を考える。まさに世紀末における救世主といった性格にすると決めたとしよう。ならば、プレイヤーは主人公として、飢えた者に水を恵んだり、弱者を救うことが出来る。なんの制限もなく、思う存分演じることができる。その舞台が、Fallout3には用意されているのだ。これは自由度が高いと言って差し支えないだろう。
前述した「プレイヤー自身のストーリーへの干渉」について、話を戻そう。例えば、プレイヤーはある人物に殺人を依頼されたとしよう。普通のゲームであれば、ここでその依頼を受諾するか、あるいは拒否するか、それは予め決められていることが多い。しかし本作は違う。殺人の依頼を無視することも勿論可能であるし、その場で依頼主を殺害してもいい。依頼主に、報酬の増額を要求する事さえできる。
このように、一つのミッションにも複数の解決策が存在する上、そのミッションを無視してストーリーを進めることができる。プレイヤーはまるでその場にいるかの如く、自由に生き、その行動は仮想世界に影響するのだ。まさに自由である。
しかし、GTAVがFallout3に劣っているという訳ではない。現代社会で、車を乗り回し、犯罪に手を染めるGTAVと、道徳観が崩壊した核戦争後の世界を生きるFallout3は、全く別物だ。
ここで一つ、大きな問題が浮き彫りになる。

「自由度」という物差しは歪んでいる

f:id:F4LFER:20180418213741j:plain

先程、自由度が高いと言われる二つのゲームを比較した。しかし、二つのゲームの内容は、全くと言っていいほど別物だ。この全く異なる二者に優劣をつけるのは不可能だ。だが、両者には共通点がある。「自由度が高い」と評されている、という点である。
「自由度」とは何か?たった二つのゲームを比較しただけでも、乗り物に乗れる自由、ミッションの解決方法の自由と、いくつも、一致しない理由での「自由」が存在する。また、当然ながら人によって、どこに自由を感じるかも違う。
ここまで検証してなんとも腑に落ちない結論ではあるが、事実、私は次のように考えている。「自由度」は、ある一つの度合いとして定義することは不可能だ。どのようにしてゲームの「自由度の高さ」を計るかは人それぞれである。f:id:F4LFER:20180418213933j:plain

また、ゲームによって様々な、意味合いの異なる「自由」が存在する。だから、ゲームを評価する上では「自由度」は公正な評価基準とはなり得ないのだ、と。
だからといって、あるゲームを人に勧めるときに、「自由度が高い」というのが不適切か、と問われればそうではない。ゲームの評価出来る点としては、「自由度」は挙げるのに適した評価点だ。問題はその「自由」が、一律では無いということにある。つまり、様々なゲームを「自由度」という物差しで比較するという行為が、適切ではないのだ。
長々と綴ったが、私が伝えたいことは、「自由度に対する見解に、明確な正解は存在しない。」ということである。あまりにも凡庸で、当然のことではあるが。これを結論として、「自由度」とは何か?という議題に対する私の見解を示し、締めくくりとしたい。

 

 

 

*1:Grand Theft Autoの舞台ロス・サントスと、その街並みを眺める主人公の一人フランクリン

*2:警察とのカーチェイス。犯罪行為さえも、GTAVではアクティビティの一つだ

*3:Fallout3の舞台、荒廃したワシントンD.Cと、本作のアイコンといえるT45パワーアーマー

*4:冒険に旅立たんとする主人公。プレイヤーは主人公として、この荒野でどう生きるも自由だ