毎日ウホウホ

森の賢者になりたい

物書きは"ツンデレ"である

物書きはツンデレである。それもかなりステレオタイプツンデレである。「べ、別にあんたの為にやったわけじゃないんだからね!」なんてベタなセリフが、きっとよく似合う。


文章には堤防がある


文章、とりわけ専門的な要素を多分に含むものは、自ずと難しくなりがちである。これはごく自然なことで、どれだけ書き手が文章力、表現力に長けていたとしても、しかし難しいものは難しいのである。難解な事柄をわかりやすく説明する為にはいくつか段階を踏む必要があり、その過程で文の構造が複雑になる、というふうに、書き手がどれだけやわらかく物事を述べようと試みても、結果的には読み手が自分で咀嚼せねばならない。


この難解さが書き手の意思に因らぬもの、不可抗力的な難しさであるとするならば、一方で作為的な難しさも存在する。それが言うなれば堤防であり、ツンデレ"ツン"の部分である。


基本的に文章というものは、生まれもって反論への耐性を備えている。自分の主張を述べるためには当然筋道を立てておく必要があり、その段階で自動的に理論の基礎と支柱が構築される。その後、文章に説得力を持たせるため、あるいは単純にクオリティを高めるために更なるブラッシュアップを経て、最後には頑丈な文章が完成する。


しかし、どれだけ反論に強い文章であろうと、中身のない反論を受けることは避けたいものだ。だから物書きは堤防を用意する。考えうる反論を文章の中で提示し、前もってその質問に対する答えを示しておいたり、あるいは意図的に難しげな単語や比喩を用いて、取っつきにくいような印象を与えたりする。私はこのような前提知識をもってしてこのような難解な話をするのですよという、一種の断り書きのようなものと言える。少し突き放したような言い方ではあるが、読み手を試しているのである。


文の後半には"デレ"が来る


そうは言っても、やはり書き手たるもの、誰かにわかって欲しくて文を書いている。読み手を試すようなことをしてみたり、難解な表現を用いてみたりすれど、それは愛の裏返しなのだ。


例えばあなたが何か趣味を持っていて、それを友人に勧めたいとする。その場合、勧める対象として選択されるのは、自分をわかっていて、かつその趣味を理解してくれるだろうという期待を抱かせてくれるような、そんな友人であるはずだ。その趣味にまず理解を示さないであろう者は真っ先に候補から外れるであろうし、俗に言う"にわか"のような者も然り、ともかく本当に信頼できるような者以外には話したくないはずである。


しかし、文章は不特定多数の者に目を向けられる、開かれたコンテンツだ。書き手は読み手がどこの誰かなぞ知る由もない。顔も知らなければ、人物像など持っての他である。だからこそ、書き手は読み手をふるいにかける。そして、このような期待を抱くのである。難解な文章を読み進めることを苦とせず、十二分に文を咀嚼しながら吟味してくれるような読み手は、きっと信頼に足る者であろう、と。


から文章の後半には、書き手も饒舌になりがちである。そこには自分の意見が伸び伸びと書かれていることも多く、一種の読者への信頼のようなものすら感じる。それはひとえにそこまで読み進めてくれたことへの感謝であり、紛れもない"デレ"である。まず文に興味を持ち、目を向け、そしてしっかりと読んでくれた者。そんな者に対してデレない筈がない。冒頭につんけんした雰囲気を纏っていれど、それはデレまでの布石なのである。


以上を持ってして、物書きはツンデレである。いや、そうであると願いたい。誰がどう言おうと、少なくとも私の中では、物書きはツンデレなのである。



P.S. CV:釘宮理恵であると尚良い。