毎日ウホウホ

森の賢者になりたい

"自由"に基づくゲーム批評と、その一貫性を保つ難しさ

『グランド・オダリスク』という絵画がある。

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この新古典主義を代表する名画は、1814年、ドミニク・アングルの手によって描かれた。しかし発表された当初、その評価は芳しいものでなく、彼の他の作品と共に1820年代半ばまで批判され続けることとなった。


1819年のサロンで展示されたとき、ある批評家は、この作品には「骨も筋肉も、血も、命も、レリーフも、いやそれどころか模造品を構成するものはなにもない」と、またある批評家は「椎骨が2つか3つ多すぎる」と、その誤謬を口々に指摘した。


それもそのはず、事実として『グランド・オダリスク』は、解剖学的に不自然な箇所を数多く抱えていた。画題となった女性は複写しえない脊柱の湾曲と骨盤の回転をもって描かれ、椎骨は実際より5つも多く、その過多は骨盤と腰部の長さにまで影響している。当時の批評家らは、それらをアングルの誤りであると信じたのである。


しかし近年の研究は、数多くの現実との相違は意図的な、故意の"歪み"であるとしている。一説にはその"歪み"は官能的な女性美を示していると、また別の見方では、女性の複雑な感情の物理的な表現であるとも。真意がどうあれ、間違いなくその"歪み"は作品に絵画特有の美しき虚構を与え、『グランド・オダリスク』を理想的な美をたたえるに足るものとした、と言って差し支えない。


では、なぜ批評家はその"歪み"を、これほどまでに忌避したのであろうか?その理由には新古典主義がヨーロッパ芸術における古典、つまるところ自然で写実的な表現への回帰であるという側面が大きい。

写実的な絵画こそが良しとされた新古典主義に於いて、ロマンティックなテーマを内包するアングルのそれは、まさしく同時代的スタイルに対する反逆に等しかったのだ。だからこそ厳しい批判に晒された。『グランド・オダリスク』は新古典主義を代表する絵画でありながら、アングルの新古典主義からの離脱を示す作品でもあったのである。


このように見てみると、『グランド・オダリスク』は時代を代表する名画でありながら、写実性という観点からの批判を一身に受けた、ある種の被害者とも言うべき存在であるといえよう。


前置きが長くなったが、先日私はとある記事を目にした。


https://jp.ign.com/cyberpunk-2077/49362/opinion/2077ghost-of-tsushima?amp=1


端的にまとめれば、「フォールアウト4、ゴーストオブツシマ、サイバーパンク2077において記者が感じた不自由さと、その不自由さを感じさせなかった好例としてゼルダの伝説BOTWを始めとした様々なゲームを語る」という内容の記事である。


結論から言うと、全てにおいて同意しかねるとは言わないが、私はどうしてもこの記事に納得出来なかった。個人的なゲームの好みであるとか、ゲーム会社の好みといった類のものは一切抜きにして、である。一貫しない「自由」の基準、事実と異なる表現、提起した問題への解決策の不完全さ...ハッキリ言ってしまえば、自分の好きなゲームを褒めたいだけの、結論ありきの記事であると感じた。そこで、どこにどう違和感を感じたのか、なぜ納得できないのか、その全てを事細かに言語化してしまおうという次第である。



"オープンワールド」はたくさんの人の興味を惹くすばらしいゲームシステムだ。筆者がはじめてオープンワールドのゲームに触れたのは『The Elder Scrolls IV: Oblivion』。どこへでも自由に行けて、多くの人間を殺してしまえるのにとても驚いた。"


この一文で記事は始まる。そして


"いまや多くのAAAタイトルがオープンワールドというゲームシステムを採用しており、もはや当たり前の存在になったといえる。そんなオープンワールドの魅力といえば、やはり「自由」だ。チュートリアルさえ終えればあとは世界のどこへでも自由に行ける。かつてのゲームは限られた空間しか描けなかったのもあって、画面のなかに広い世界があるのはとてつもない魅力を持つのだ。"


と続く。この時点で私は驚きを隠せなかった。オイオイ、「自由」を出しやがったよ、と思った。


「自由」という表現は余りにも解釈の幅が広すぎる。何をもって自由とするのか、またゲームをプレイしていてどこに自由を感じるのか、それは正しく十人十色である。だからこそ、私は「自由」はゲームを批評するのにそぐわない単語であると考えているし、もし知った上でその言葉を引っ張り出すのであれば、それ相応の注釈やその定義の明記といった、納得するに足る「自由」の基準を記事の中で大きく示す必要があると思っている。増してや複数のゲームを比較して行う批評であれば、その必要性は尚更だ。


さて、「自由」という単語を出した以上、記事の中で一貫した整合性を取らなければならないのは必然であり、しかもこの記事の場合オープンワールドの魅力を「自由」であると断言してしまっている。果たしてどのようにして「自由」を定義し、その一貫性を保つという難題をクリアするのであろうか。私は期待と不安交じりにiPhone8+をフリックした。


"しかし、 Ghost of Tsushima』と『サイバーパンク2077』を遊んだ私は意外な経験をした。この2作品はオープンワールドを採用しているが、むしろ自由ではないように見える。なぜそう感じてしまうのか?"


"Ghost of Tsushima』は鎌倉時代の侍を描いており、『サイバーパンク2077』は2077年のサイバーパンクアメリカを舞台にしている。開発会社も違えば作中の時代背景も違うし、どちらもアクションやRPGといった要素も併せ持つ複雑な作品なのだが、作品のコアは世界・キャラクター・ストーリーに集約されるのだ。


欠点も共通点があり、魅力的なキャラクターが絡まないサブクエスト(あるいはそれより小さな目的)はつまらない。


また、遊んでいるとオープンワールドである意義は感じられても自由であるとは思えない。むしろ窮屈だ。


どちらも優れたオープンワールドなのに、なぜ不自由さを覚えるのか? その理由を探るには、まずオープンワールドが何かを知らなければならない。"


この時点で「自由」という単語が5回も出てきた。しかも『ツシマ』と『サイバーパンク』が自由ではないと繰り返しながらである。


"魅力的なキャラクターが絡まないサブクエスト(あるいはそれより小さな目的)はつまらない。"


という一文には ̶思̶わ̶ず̶i̶P̶h̶o̶n̶e̶を̶地̶面̶に̶叩̶き̶つ̶け̶そ̶う̶に̶な̶っ̶た̶表現が少し主観的すぎるような印象を受けたが、ますます「自由」をどう定義するのかが気になり始めた。どうやらその前に、まずオープンワールドを定義するようだ。


"この記事において、オープンワールドは次のように定義する。

  1. 世界をシームレスに移動できる(序盤などで制限もありうるが、基本的に世界のすべてにアクセスできる作りになっている)。
  2. 世界を冒険するうえでさまざまなクエストや依頼が複数同時発生する。"


オープンワールドの定義については、特におかしな点は見当たらない。


"オープンワールドというゲームシステムでは上記2点が重要で、細かな差はあれど昨今の作品はこのポイントを抑えているだろう。さて、このシステムで特に重要なのが「さまざまなクエストや依頼が複数同時発生する」ということ。つまり、システム上、メインクエストとサブクエストが同列になる。どこから手をつけてもいいからこそ、自由に感じられるわけだ。"


ようやく「自由」に対する見解が現れた。この記事においては、「どこから手をつけてもいい」ということを「自由」であるとするようだ。アレ?先程「不自由である」とした『ツシマ』も『サイバーパンク』も、チュートリアルこそあれ「どこから手を付けてもいい」ようなゲームではなかったろうか?早くも違和感が生じる。


"ここで問題になるのがストーリーの存在である。長いストーリーには前後関係があり時間・場所の制約が発生しうる。たとえば「桃太郎」であれば川から桃が流れてきて、それを切ったら子供が生まれ、成長して鬼退治をしに行く……と、前後関係もしくは連続性が存在するのだ。これらが複数同列に発生するのはありえない。"


"Fallout 4』は、このストーリーの制約が明らかな問題になっている。本作の始まりは、自分の妻 or 夫が殺され、幼い子供も誘拐されるという展開。幼い子供を探す展開になる以上、なるべく早く助けなければならないだろう(時間の制約が発生)。そして子供がいそうな場所、あるいは手がかりがありそうな場所へ繋がっていく(場所の制約が発生)。

つまり、ストーリーに乗ると流れに身を任せる必要があり、同時に時間と場所が制限されてそれが優先されてしまう(メインクエストとサブクエストが同列にならない)。『Ghost of Tsushima』と『サイバーパンク2077』もまさしくこの点にひっかかっているのだ。"


ちょっと待ってほしい。全てが支離滅裂としている。まず桃太郎の例えからしてメチャクチャだ。


"たとえば「桃太郎」であれば川から桃が流れてきて、それを切ったら子供が生まれ、成長して鬼退治をしに行く……と、前後関係もしくは連続性が存在するのだ。これらが複数同列に発生するのはありえない。"


としているが、桃太郎をゲームに例えれば、「生まれ、育ち、鬼退治をしにいく」というのはまさしくメインクエストにあたる。しかし後の文には、


"つまり、ストーリーに乗ると流れに身を任せる必要があり、同時に時間と場所が制限されてそれが優先されてしまう(メインクエストとサブクエストが同列にならない)。"


とある。桃太郎の例えはなんだったのか?「生まれ、育ち、鬼退治をしにいく」という各プロセスは確かに同列になり得ないが、その全てがメインクエストであるのだから当然である。


例えば『Fallout3』のストーリーは「核シェルターで生まれ、そこで育った主人公が、父を探す為外の世界へ旅立つ」というものであるが、生まれて育つまでの過程はチュートリアルとして描かれ、外の世界へ旅立ち父を探す過程では、無数のサブクエストとメインクエストが"複数同列に発生する"


もし同じように桃太郎をゲームとしたならば、桃から生まれ、育つ場面は同じく最序盤のチュートリアル、もしくはムービーシーンとして消化できるであろうし、もしサブクエストが存在したならば、鬼ヶ島に行くまでの過程で村を襲う鬼を退治するだとか、きびだんごで仲間を増やすだとか、メインクエストと"複数同列に発生する"サブクエストは幾らでも用意できるだろう。


次に


"Fallout 4』は、このストーリーの制約が明らかな問題になっている。本作の始まりは、自分の妻 or 夫が殺され、幼い子供も誘拐されるという展開。幼い子供を探す展開になる以上、なるべく早く助けなければならないだろう(時間の制約が発生)。そして子供がいそうな場所、あるいは手がかりがありそうな場所へ繋がっていく(場所の制約が発生)。"


という点。ここまで来るともういっそ清々しいレベルで誤りしかない。


"幼い子供を探す展開になる以上、なるべく早く助けなければならないだろう(時間の制約が発生)。"


なぜ"なるべく早く助けなければならない"という記者の感情が"時間の制約"とされているのだろう?事実として『Fallout4』において"時間の制約"は何一つ存在しない。そして何より、そもそも"なるべく早く助けなければいけない"という状況ではない。


Fallout4』の冒頭を細かく説明すると、「まだ赤子の息子を持つ夫婦が暮らしていると、ある日突然核戦争が勃発する。そこでプレイヤーは核シェルターに逃げ込み、装置に入りコールドスリープすることになるが、途中で謎の人物がコールドスリープを解除し、夫か妻(プレイヤーが選ばなかった方)を目の前で殺害して息子を連れ去ってしまう。しかしプレイヤーは再度コールドスリープにかけられ、そのまま時が経過してからやっと装置より解放される。そこから核シェルターを脱出し、我が子を探す旅が始まる」というものだ。


すぐにわかると思うが、"幼い子供を探す展開"では断じてない。コールドスリープが解除された段階で、主人公は我が子がさらわれてから、一体何年の歳月が経過したのかを全くもって知らない。そして自宅跡に到着して執事ロボットに問うた時、初めて冷凍睡眠の開始から210年もの月日が経過した事を知るのだ。


"そして子供がいそうな場所、あるいは手がかりがありそうな場所へ繋がっていく(場所の制約が発生)。"


というのも、これまた噛み合わない。『Fallout4』のシナリオの主軸に添えられているのは確かに我が子を探すことではあるが、"場所の制約"に近しいものは特にない。息子の行方を知っているかもしれない人物を救いに行ったり、協力してくれる組織の問題を解決したり、多様なメインクエストが存在しつつも、その全ての合間においてサブクエストをこなすことができる。メインクエストの進行段階に応じて行ける場所や出来ることが制限されるようなこともない。


適切でない例えと、事実と異なること甚だしい具体例、そして未だ基準のハッキリしない"ストーリーの制約"。これらの問題因子を抱えたまま、記事はついに『ツシマ』と『サイバーパンク』の"不自由さ"に言及するフェーズへ突入する。


"たとえば『サイバーパンク2077』では、クエストとクエストの間に時間を挟む(1日後に連絡が来るなど)して、プレイヤーを意図的に寄り道させるようにしている。また、メインストーリーの流れ自体は連続しているが、状況によって絡む相手が変わったり、章のような区切りがあったりする。長さはあるが、ひとつひとつはなるべく短くなるようにしているのだ。

とはいえ、それでも相性の悪さは解決しきれない。そもそも本作のストーリーでは、主人公があとどれだけ生きられるのかわからないのだ。にも関わらず、娼婦を買ったりボクシングなんかをしている場合だろうか? 実際、作中のキャラクターから「早く来てくれ」などと急かされることがあるし、頭の中のチップが定期的に違和感を引き起こして死期が迫っているように思わせる演出もある。

また、脳内に出てくる相棒のジョニー・シルヴァーハンドは荒くれ者のような性格だ。まともとは思えない動作を繰り返すキャラクターがずっとそばにいるため、必然的に主人公はそれをいさめる流れになる。ゆえに主人公のイメージも必然的に固まっていく。"


"Ghost of Tsushima』はもっと一本道なストーリーだ。プレイヤーは侍としての誉を守るために正々堂々と戦うか、あるいは民を守るために鬼になるかを選べる。しかし、ストーリー上でプレイヤーの意思は反映されず、主人公は後者を選んでしまう。また、この設定のために村人を殺したりもできない(攻撃はできるが、矢が刺さったり村人が驚くだけで終わる)。

結局のところ、ストーリーが強いと連続性が必要になり、設定的な縛りも発生し、散発的な展開が行われるオープンワールドと相性の悪さが出てしまうのである。もっと単純にいえば、プレイヤーキャラクターやストーリーが作り込まれていると「使命」ができてしまう。自由とは何物にも縛られない状態なわけで、使命と正反対の概念なわけだ。ゆえにこの2作品は不自由さを感じうる。

サブクエストがつまらなく感じるのも、おそらくこのせいだろう。『Ghost of Tsushima』と『サイバーパンク2077』はメインディッシュが世界・キャラクター・ストーリーなわけで、ほかの行為は残念ながらオマケにしかなりえない。しかし、オープンワールドは広い世界に散発的な要素がたくさん必要だ(用意できないと世界がスカスカになってしまう)。結果、そこまでおもしろくない要素が山盛り出てきて、サブクエストや細かな依頼がつまらなく感じてしまう可能性が出てくる。"


もう突っ込むのにも疲れてきた。余りにも指摘すべき点が多すぎる。正直なところ今にでも匙を投げたいが、ここまで書いた以上続けさせていただこう。


まず『サイバーパンク』における死期が迫る主人公という設定、そのオープンワールドゲームとの相性の悪さ。これについては珍しく同意見だ。確かに『サイバーパンク』のストーリーの性急さは、全編を通して感じられる。常に時間に追われるような演出が続く一方で、実際に制限時間のようなものがあるかと言われるとそうではない。しかしそれが設定に留まり、直接的にゲームプレイに影響を与えないにしても、やはりプレイ中の違和感は拭えないものだ。サブクエストの殆どは正しく傭兵稼業といったもので、余命幾ばくかの主人公がそれらに勤しむ、という絵面には違和感しか感じない。『サイバーパンク』は寄り道が多数存在するゲームでありながら、設定の都合寄り道することに二の足を踏んでしまうという問題を抱えているのだ。


しかし待ってほしい。この記事における「自由」とは、「どこから手をつけてもいい」ということではなかったろうか?確かに『サイバーパンク』の主人公の設定はゲームプレイと噛み合っていない。だがそれが、「どこから手をつけてもいい」という筆者の標榜する「自由」を阻害しただろうか?『サイバーパンク』は序盤にこそ制約があれど、一連のメインクエストを終えればすぐに「どこから手をつけてもいい」状態に移行する。メインクエストは複数あり、またサブクエストも無数に点在する。であれば、一体何をもってこのゲームを不自由であるとするのだろう?直後の文が、その疑問をある種の確信へと導く。


"また、脳内に出てくる相棒のジョニー・シルヴァーハンドは荒くれ者のような性格だ。まともとは思えない動作を繰り返すキャラクターがずっとそばにいるため、必然的に主人公はそれをいさめる流れになる。ゆえに主人公のイメージも必然的に固まっていく"


「どこから手をつけてもいい」自由を述べていたはずが、いつの間にか「主人公を演じる自由」にすり替わっている。そう、この記事は「自由」をキーワードとしておきながら、その「自由」の一貫性は無いに等しいのだ。あるゲームの不自由さを指摘するにおいても、またこの後の筆者の評価するゲームを褒め称えるにおいても、この記事に於いてはその都度、定義が都合よくねじ曲げられていく。結論ありきの記事を組み立てたいが為に、一貫性がこれでもかと犠牲になっている。この記事における違和感の主たる要因は正しくこれであろう、一つの記事を読み進めている筈なのに、「自由」の定義がてんでばらばらなのだ。


"Ghost of Tsushima』はもっと一本道なストーリーだ。プレイヤーは侍としての誉を守るために正々堂々と戦うか、あるいは民を守るために鬼になるかを選べる。しかし、ストーリー上でプレイヤーの意思は反映されず、主人公は後者を選んでしまう。また、この設定のために村人を殺したりもできない(攻撃はできるが、矢が刺さったり村人が驚くだけで終わる)。"


ここもそうだ。ストーリー上での選択の有無という「自由」、村人を殺したりできるか、の「自由」、これほどまでに短い一文の中で、異なる「自由」が露見してしまっている。


"結局のところ、ストーリーが強いと連続性が必要になり、設定的な縛りも発生し、散発的な展開が行われるオープンワールドと相性の悪さが出てしまうのである。もっと単純にいえば、プレイヤーキャラクターやストーリーが作り込まれていると「使命」ができてしまう。自由とは何物にも縛られない状態なわけで、使命と正反対の概念なわけだ。ゆえにこの2作品は不自由さを感じうる。"


そしてそのまま、あろうことか定義の曖昧であった"ストーリーの制約"と、漠然とした"不自由さ"をイコールで結んでしまう。今まで語られてきた幅の広すぎる「自由」を、ストーリーに縛られない、というこれまたはっきりとしない基準に帰結させてしまうのだ。曖昧なものと曖昧なものとを等号で結んだところで、問題は何一つとして解決しない。しかしこのタイミングで、一向にそのやんわりとした、都合の良い含みを持たせた単語群は、そのまま同一なものであると結論付けられてしまった。筆者の暴走は止まらない。



"ゼルダの伝説 ブレス オブ  ワイルド』はこの使命問題をうまく解決している。主人公は「厄災ガノンを倒してゼルダ姫と世界を救う」という使命があるものの、しかしその前に「4体の神獣を解放する」必要があり、さらにそれを達成するために寄り道して自分を鍛えていかなければならない。つまり、寄り道が推奨されているのだ。"


なぜか"ストーリーの制約"という問題に対するブロックバスターとして挙げられたのは、『BOTW』の寄り道を推奨するゲームデザイン。そして、


"ましてやゼルダ姫は100年も厄災を封じており、数日やそこら遊びに出ていても問題はなさそうである。要するに、使命があったとしてもそれを無視できれば、オープンワールドとしての自由は保証できるのだ。"


と述べる。もう疲れた。こうも一貫性の無い記事が書けるものなのか。"ゼルダ姫は100年も厄災を封じており、数日やそこら遊びに出ていても問題はなさそうである"というのは、筆者の主観であるとしか言いようがないし、その根拠も余りにも薄い。これがまかり通るなら『Fallout4』は息子の安否が不明であるから急いで探さなくてもよい、となっても良いであろうに、何故か『Fallout4』は同一記事の中で"ストーリーの制約"の具体例として挙げられている。余りにも都合が良すぎる。自分の好きなゲームを評価する為だけに、ねじ曲がった基準を適用して他のゲームを当て馬としているのだ。これが果たしてゲームライターのする行為であろうか?


これ以降はJRPGの『ロマサガ』、オープンワールドゲームと対極の位置にあると言ってよいノベルゲーム『グノーシア』を提示して、はっきりとしない"ストーリーの制約"という問題の打開策を、これまたはっきりとしない観点から述べる。言えるのは、『ロマサガ』や『グノーシア』が筆者好みのゲームで、それらのゲームを良いゲームであると綴りたいのであろう、といったことくらいである。もはや突っ込むに値しない文であるので、整合性が取れていない箇所の指摘は省かせて頂く。


ここまで読んでいただいたのだから、もう包み隠さず私の感情をぶちまけさせて頂こう。ハッキリ言ってこのIGNJの記事はクソだ。聳え立つクソの山だ。悪質なPV稼ぎと言うほかない。『Fallout4』、『ツシマ』、『サイバーパンク』と並いる大作を手当たり次第雑に批判した上で、筆者が好きで好きでたまらないのであろう『BOTW』をこれまた雑に褒める。もはや批評の域に達していない。この記事は本質において、ふざけ半分に行われるきのこたけのこ戦争となんら変わりない。結局のところ、ゲームの「自由」について語るという大層なテーマを表題に掲げておきながら、その中で行われるのは、無理に理由を付けて何かを叩き、贔屓するゲームを讃える行為に過ぎないのだ。


「自由」に類するような広義な単語を批評に用いるのは難しい。しばしば筆者の思考の及ばぬところで、文章の一貫性を損なわせてしまう。特に何かを比較して評価する際はまさにそうで、文中でその単語にある一定の基準を設けなければ、たちまち文章全体を掻き乱してしまうであろう。だからこそ、私はこの記事が許せない。恣意的に「自由」という言葉の持つ曖昧さを利用して、都合良く変形させ、結果的に自分の好みを押し付ける記事に仕上がっている。その上に、目を引く表題と大作の批判を織り交ぜて、閲覧数を稼いでやろうという魂胆が透けて見える。


記事から読み取れる「自由」を並べてみると

・世界のどこへでも行ける自由

・どこから手をつけてもいい自由

・登場人物を殺せるという自由

・自分らしい主人公を演じる自由

・ストーリーにおける選択の自由

と、私が読み取れたたけでもざっと5つの「自由」が混在していた。にも関わらず、記事前半に挙げられるゲームは「不自由」であるとして批判されているし、後半のゲームは「自由」であるとして評価されている。「自由」それ自体が歪んだ物差しであるのに、事もあろうかその歪みを修正しようともしないのだ。寧ろ、さらに自分の都合の良いよう歪ませているようにすら見える。


冒頭において、私は『グランド・オダリスク』をある種の被害者であると形容した。事実として解剖学的な誤りがあり、その誤りを理由に批判された。しかし同時に、"歪み"は意図されたものであり、今では高く評価されている名画である、と。これをゲームに例えてみる。


グランツーリスモ』は、そのリアルさが売りのドライビングシミュレーターである。そして『マリオカート』は、現実とはかけ離れた軽快なアクションこそが最大の特徴だ。であれば、『グランド・オダリスク』への解剖学的な誤りを指摘する批判は、『マリオカート』は『グランツーリスモ』のようにリアルでないから駄目である、と言うようなものであろう。根底にあるスタイルから異なるのであるから、同じ絵画(レースゲーム)であるというだけで手ひどく非難するのは筋違いというものだ。


『グランド・オダリスク』は新古典主義に遡行するような作品であったということ、そして解剖学的な誤りは事実である事から、19世紀の批評家たちの批判には、それ相応の理由も認められる。しかしIGNJの記事には、全く持ってふさわしい理由が見当たらない。写実性という普遍的で明確な評価点が存在した新古典主義とは異なり、何をもって良いゲームとするかの基準は人によって異なる。その上、解剖学的な誤りは事実として認められるものの、『ツシマ』『サイバーパンク』の不自由さは筆者の印象でしかない。そもそも、ゲームを批判するのに「自由」という単語を用いるのが不適当であるのに、冒頭でオープンワールド=自由が求められるもの、と定義してしまい、「自由」を物差しとしてしまっているのだ。


その適用される範囲の広さ、一貫性を維持することの難しさから「自由」という単語は扱いづらい存在ではあるが、一方でゲームを評価する際には必ずしも適さないとは言えない。例えば『GTA』を始めてプレイした者は、これはまさしく「自由」なゲームであると口にするであろう。巨大なフィールド、豊富なアクティビティは、プレイヤーに自由を感じさせるに足るものだ。


結論として、私はゲームが「自由」であることは評価点になり得ても、欠点にはなり得ないと考えている。オープンワールドゲーム全てに「自由」でないという批判を適用するのは的外れである、というのだ。それは『グランド・オダリスク』を解剖学的に誤りであると批判することや、『マリオカート』を現実的でないという理由で批判することに近しいが、殊更に悪辣である。なぜならば、「自由」という評価基準は、解剖学や現実性とは異なり、都合の良いように歪めてしまえるからである。「自由」という評価基準がゲームメディアに氾濫することに警鐘を鳴らして、この記事の締めくくりとしたい。

鉄と血と少女の臓物。現代のDOOMライク・シューター『The Citadel』

今でこそ対戦ツールの代名詞的な存在となったファーストパーソン・シューター。その歴史は長く、ジャンルとしての産声を挙げたのはおよそ30年も前まで遡る。

時は1992年、id softwareは迷路ゲームのノウハウを活かした史上初のFPS『Wolfenstein 3D』を発売、その翌年には矢継ぎ早に同社の代表作となる『DOOM』をリリースした。その二作に共通するのは斬新さ、そして過剰なまでの暴力性であり、それらは当時のゲーム業界に大きな衝撃を以って迎えられることとなる。

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1990年代初頭と言えばちょうどスーパーファミコンが発売されて間もない時代であり、フロッピーディスクが現役であった時代でもある。そんな中発売された『DOOM』が与えた衝撃の大きさは想像に難くない。ポリゴンを用いない疑似的な3D表現、のちに物議を醸すこととなる残虐なゴア表現もさることながら、当時は銃で敵を撃つという表現までもが新しかった。無論ゲーマー達はその魅力に圧倒され、多くの狂信的なファンを獲得するに至った。

このようなエポックメイキングには多くのフォロワーが付き物だ。かの『ダイ・ハード』が記録的なヒットを収めてからというもの、似たような映画がひっきり無しに公開されたのと同じように、『DOOM』もまた多くのフォロワーを生んだ。それらは"DOOMライク"と定義され、数多くの名作と迷作が入り混じる中で、FPSというジャンルはさらに洗練されていくのだった。

『The Citadel』はそんなFPS黎明期を思い起こさせるオールドスクールFPSだ。プレイヤーは戦う修道女となり、巨大要塞の奥深くに眠る偽りの神を打倒すべく、熾烈な戦いに身を投じることとなる。

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まず目を引くのがそのハイセンスな世界観。キャラクターデザインにはアニメチックな美少女像とバイオメカニカルなモチーフが混在し、加えて宗教的なテーマも影響している。各ステージのボスにはそれぞれ七つの大罪があてがわれ、その造形は美しくも異様である。

DOOMライクのお約束であるゴア表現は過剰なまでにこだわり抜かれており、炎上して死に至る過程までもが細分化され作りこまれている。身体パーツは細かくパーツ分けされ、これでもかというほどの身体欠損表現を見せてくれる。苦悶の表情を浮かべた少女の頭部と臓物が入り乱れる凄惨な光景もまた、本作ならではのエッセンスと言える。

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しかしながら、本作のセールスポイントはその秀逸なビジュアルのみではない。次のエリアに進む為カードキーを探したり敵と戦闘したりする古典的なスタイルを採用しつつ、一方で現代的なFPSの要素も数多く導入されている。

DOOM』とは異なりXY軸の照準移動が出来、現代のFPSと同様ADSも可能で、ダッシュと二段ジャンプによってよりスピーディなゲームプレイが提供される。また、銃弾は即着弾でなくしっかりと放物線を描いて飛翔する。リロードの概念も存在し、弾薬を撃ち尽くしてからのリロードに至っては、チャンバー(薬室)に初弾を装填するまたはコッキングレバーを引くといったアニメーションが追加されるという芸の細かさだ。オプションとして武器のジャム(給弾不良)と左右へのリーンの有無も選択でき、さらに異なるゲームプレイを味わえる。f:id:F4LFER:20200817204719p:plainミニマップの存在も、本作を凡庸な90年代風シューターに留まらせない重要なファクターであるといえるだろう。敵の位置は常にマップに表示されるため、どの武器を用いるかといった戦略を立てながら行動する楽しみもある。立体的かつ各部屋が扉で隔てられたマップの構造と相まって、走っては銃を撃つラン&ガンスタイル以外にも、慎重に索敵しつつ各個撃破を狙うようなプレイングをも可能だ。また、画面に表示される三本のバーはそれぞれ体力、スタミナ、満腹度を示しており、スタミナは近接攻撃やダッシュで、満腹度は時間経過によって減少する。満腹度が減少すると体力・スタミナの上限値が低下するので、あまり時間をかけすぎてもいけない。

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前述したゴア表現と同様、炎や煙のようなパーティクル表現がリッチであるのもまた現代のFPSの特権であろう。2.5Dながらチープさを感じさせない味のあるグラフィックは、独特の世界観と相まって『The Citadel』の世界へとプレイヤーを引きずりこむ。

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武器種、敵種、ステージ数共にボリュームも十分だ。独特なデザインで強烈なキャラクター性を持つ銃器にはそれぞれセカンダリファイアが搭載されており、ライフルグレネードの如くマグナムから榴弾を発射したり、敵を焼き尽くす火炎放射やレーザービームを放つこともできる。さらに、武器類はショップでパーツを購入すれば装弾数の増加やスコープのズーム倍率の強化などの恩恵も受けられる。

ステージは6章に分けられ全部で30ステージ、時間にしておよそ4~5時間ほどで、周回にも適した程よいボリュームといえる。難易度もイージー、ノーマル、ハードと3つに分けられているので、一度クリアした後はより高い難易度に挑戦してみるのも良いだろう。

『The Citadel』はSteamにて1500円で販売中。ここはひとつ原点に立ち返って、オールドスクールな一人用FPSをプレイしてみるのはいかがだろうか。

https://store.steampowered.com/app/1378290/The_Citadel/

物書きは"ツンデレ"である

物書きはツンデレである。それもかなりステレオタイプツンデレである。「べ、別にあんたの為にやったわけじゃないんだからね!」なんてベタなセリフが、きっとよく似合う。


文章には堤防がある


文章、とりわけ専門的な要素を多分に含むものは、自ずと難しくなりがちである。これはごく自然なことで、どれだけ書き手が文章力、表現力に長けていたとしても、しかし難しいものは難しいのである。難解な事柄をわかりやすく説明する為にはいくつか段階を踏む必要があり、その過程で文の構造が複雑になる、というふうに、書き手がどれだけやわらかく物事を述べようと試みても、結果的には読み手が自分で咀嚼せねばならない。


この難解さが書き手の意思に因らぬもの、不可抗力的な難しさであるとするならば、一方で作為的な難しさも存在する。それが言うなれば堤防であり、ツンデレ"ツン"の部分である。


基本的に文章というものは、生まれもって反論への耐性を備えている。自分の主張を述べるためには当然筋道を立てておく必要があり、その段階で自動的に理論の基礎と支柱が構築される。その後、文章に説得力を持たせるため、あるいは単純にクオリティを高めるために更なるブラッシュアップを経て、最後には頑丈な文章が完成する。


しかし、どれだけ反論に強い文章であろうと、中身のない反論を受けることは避けたいものだ。だから物書きは堤防を用意する。考えうる反論を文章の中で提示し、前もってその質問に対する答えを示しておいたり、あるいは意図的に難しげな単語や比喩を用いて、取っつきにくいような印象を与えたりする。私はこのような前提知識をもってしてこのような難解な話をするのですよという、一種の断り書きのようなものと言える。少し突き放したような言い方ではあるが、読み手を試しているのである。


文の後半には"デレ"が来る


そうは言っても、やはり書き手たるもの、誰かにわかって欲しくて文を書いている。読み手を試すようなことをしてみたり、難解な表現を用いてみたりすれど、それは愛の裏返しなのだ。


例えばあなたが何か趣味を持っていて、それを友人に勧めたいとする。その場合、勧める対象として選択されるのは、自分をわかっていて、かつその趣味を理解してくれるだろうという期待を抱かせてくれるような、そんな友人であるはずだ。その趣味にまず理解を示さないであろう者は真っ先に候補から外れるであろうし、俗に言う"にわか"のような者も然り、ともかく本当に信頼できるような者以外には話したくないはずである。


しかし、文章は不特定多数の者に目を向けられる、開かれたコンテンツだ。書き手は読み手がどこの誰かなぞ知る由もない。顔も知らなければ、人物像など持っての他である。だからこそ、書き手は読み手をふるいにかける。そして、このような期待を抱くのである。難解な文章を読み進めることを苦とせず、十二分に文を咀嚼しながら吟味してくれるような読み手は、きっと信頼に足る者であろう、と。


から文章の後半には、書き手も饒舌になりがちである。そこには自分の意見が伸び伸びと書かれていることも多く、一種の読者への信頼のようなものすら感じる。それはひとえにそこまで読み進めてくれたことへの感謝であり、紛れもない"デレ"である。まず文に興味を持ち、目を向け、そしてしっかりと読んでくれた者。そんな者に対してデレない筈がない。冒頭につんけんした雰囲気を纏っていれど、それはデレまでの布石なのである。


以上を持ってして、物書きはツンデレである。いや、そうであると願いたい。誰がどう言おうと、少なくとも私の中では、物書きはツンデレなのである。



P.S. CV:釘宮理恵であると尚良い。

「奇跡」のゲームの話をしたい。『Hotline Miami』レビュー

「奇跡」

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奇跡」。それは時に、作品を評するのに用いられる。

例えば映画であれば、俳優と監督、音楽に脚本といった様々な要素が、絶妙に噛み合ったときに。
ロックであれば、歌唱と楽器の音色とテンポであろうか、それらが素晴らしい音楽を紡いだ時に。

「奇跡」が作品を評する際に用いるべき単語であるかは判断しかねる問題であるが、ともかく、正しく「奇跡」の様相を呈した作品というのは、やはり存在すると言っていい

クリエイターの実力を最大限に、いや、それ以上にまで発揮した作品。

『Hotline Miami』は、間違いなくその類であろう。

概要

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Hotline Miami(以下、Miamiと呼称)は、2012年にリリースされた、現代にリファインされた2Dトップダウン・シューター型アクションゲームだ。

インディーゲームとしては異例の大ヒットを記録し、「Ruiner」や「Apeout」等の所謂Miamiフォロワーを数多く生む一大ブームを巻き起こした。そして今なお、その魅力は人々を惹きつけて止まない。
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単純
に言えば、このゲーム、「面白い」のだ。
 
ゲームというのは、いくらでも粗探しをすることができる。ゲームバランスが悪いとか、グラフィックが悪いとか、ストーリーが面白くない・・・といった具合に。

しかしこのMiami、どこをとっても「面白い」。BGM一つとっても素晴らしい。
完璧にゲームプレイと世界観にマッチしている。
のすべての要素が素晴らしく、また絶妙に噛み合っている。やはり正しく、前述したように「奇跡」と評すに相応しい。

その「面白さ」を、私の独断と偏見を以って分解し、紹介したい。

R TO RESTART 

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Miamは、俗に言う「死にゲー」である。

何度も失敗を繰り返しては、成功に辿り着くまで試行する。

いわばトライ&エラーを楽しむゲームだ。

 

スピーディーなゲームプレイも魅力で、敵は全て一撃で死に至る為、

スタイリッシュに殺戮を楽しむことが出来る。

それと同時に、Miamiはシビアなゲームでもある。

一度でも敵の放つ銃弾や近接攻撃を受ければ、プレイヤーは即死する。

プレイヤーキャラの強化等の要素は無く、ひたすらにストイックだ。

そんなMiamiを優秀な「死にゲー」たらしめるのは、Rキーでの即リスタートシステムであろう。f:id:F4LFER:20190328161848j:plain

このゲームに残機やロード時間といった煩わしい要素など一切ない。死ねば、Rキーを押せば即座にフロアの最初からリスタートできる。                

1フロア自体もそこまで大きくないので、ストレスフリーに殺戮を楽しめるという訳である。


また、難易度曲線も非常によくできている。

初めはごく簡単なステージであるが、段階的に敵の数と一フロアのサイズは増加する。プレイしながらテクニックを覚え、上達を実感できる作りになっているというわけだ。

Miamiにはスコアの概念も存在し、敵に馬乗りになってトドメを刺せばハイスコア、使う武器に応じてさらに加点といった悪趣味なスコアシステムが搭載されている。

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さらにコンボで点数が倍増するため、ハイスコアの為に繰り返し楽しめること請け合いだ。

そしてゲームプレイをさらに盛り上げるのが、サイケなBGM達だ。

シンスウェーブと呼ばれるジャンルのものであり、多用されるシンセサイザーの音色にはどこか80年代らしい懐かしさと高揚を覚える。


"Miami Disco" - Perturbator (Hotline Miami OST)

特にMiami Discoは、どこかノスタルジックな物悲しさも漂う名曲だ。これらがゲームのために書き下ろされたのでなく、既存の楽曲を使ったというのだから驚きである。

人を傷つけるのは好きか?

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ゲームとしての面白さは前述の通りであるが、魅力的なストーリーもまた、Hotline Miamiの大きな魅力の一つだ。
あらすじはこうだ。
 
プレイヤーは、一切人物像が語られない青年「Jacket」として夢を見る。夢の中では三人のマスクを被った人物が謎めいた言葉をJacketに投げかける。
夢から覚めると自宅のアパートの留守番電話に伝言が入っており、それ
に従って荷物を開くと、そこには夢で見たニワトリのマスクが入っていた。
それも、「失敗は許されない いつも見ているからな」との手紙と共に。
Jacketは留守番電話が指示した場所へと赴き、殺戮を繰り返す・・・
 
このゲームは、「信用できない語り手」の手法がとられている。
画面に映るのが夢か現実か、Jacketはいったい何者なのか、そのすべてがわからぬままプレイヤーは殺戮に興じることとなる。f:id:F4LFER:20190328162153j:plain

特筆すべきはその演出で、サイケなBGMや極彩色のドット、そして70年代ポップ・カルチャーに影響された独特の雰囲気がプレイヤーをMiamiの世界へと誘う。
 
続編であるHotline Miami2は一種の種明かし的な意味合いも含み、Miamiで描かれた狂気の日々の真相が断片的に描かれるが、それでも完全には明かされない。
ストーリーの考察に興じるのも、また一興であろう。
 
 
 
以上のように、このゲームは正しく「奇跡」に相応しい。
ゲームプレイ、ストーリー、演出・・・すべてがハイレベルに組み合わさっている。
2作目の出来を鑑みて、やはりこのゲームバランスは奇跡だったのであろう、と実感してしまうのは皮肉なことだが・・・
 
ともあれ、幸いなことにHotline Miamiはsteamセール常連である。
つまりは、セール期間であればワンコインで楽しめるということだ。
はっきり言って、買わない手はない。
 
 

ゲームにおける「自由度」とは一体何か?オープンワールドと関連付けて考える。

「自由度」って、何?


最近、インターネット上のゲーム界隈でよく耳にする単語がある。「自由度」だ。ある時は、ゲームをレビューするにあたっての評価の材料として。ある時は、理想のゲームとはどのようなものか?といった議論の中で。
しかし、この言葉の定義は非常に曖昧である。そこで私は、過去の様々なゲームと関連付けながら、「自由度とは何か?」という議題に対する見解を示したいと思う。

「自由度」と「オープンワールド

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一般的に、自由度が高いと評されるオープンワールド型ゲーム。そして、オープンワールドゲームの代表格と言えるのが、Grand Theft Autoシリーズだ。まずはその最新作、Grand Theft Auto Ⅴ(以下、「GTAV」と呼称)を例に挙げて、一般的な「自由度が高いゲーム」とは何かを模索するとしよう。
GTAVは、ご存知GTAシリーズの最新作で、広大なマップ、美麗なグラフィック、魅力的なストーリーを併せ持ったAAA級のゲームだ。特筆すべきは、まるで現実のような街並みを舞台に、とにかく多種多様なアクティビティを楽しめる点だろう。チュートリアルこそあるものの、それが終われば後は自由だ。まるで映画の様な素晴らしいストーリーミッションを楽しむのは勿論、車に乗り込んで街を気ままにドライブしても良いし、ゴルフやテニス等様々なミニゲームを楽しんでもいい。銃を乱射して暴れまわることさえ、この緻密に構成された仮想空間では許される。

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こうして魅力を羅列してみると、改めて見えてくるがその自由度の高さだ。異常ともいえる作りこみに裏打ちされた凄まじいクオリティ。用意された舞台で、何をしても咎められることは無い。しかし、「自由度」を念頭に置いてプレイすると、思いの外「自由」とも言えない。

GTAVのみならず、オープンワールドゲームにおいては、予め用意されたミッションの解決策は一つだけだ。指示された方法で、敵を始末し、車を盗む。そもそもミッションも、ゴルフと同じくして広大な箱庭のアクティビティの一つであるのだから、当然のことではあるが。
また、プレイヤー自らが決断し、それがストーリーに影響することも一部を除き皆無である。つまり、ロス・サントスという巨大な箱庭は、探索やドライブ、ストーリーミッションを楽しむことが出来ても、あくまでメインストーリーの舞台に過ぎない。例えるなら映画のセットのようなものだ。直接プレイヤー、及びプレイヤーキャラクターが街に干渉することは不可能である。
しかしそれを差し引いても、広大な街に沢山のアクティビティ、多種多様な乗り物が用意されているのだから、「自由度が高い」と言えることに変わりはない。では、ミッションの解決策、プレイヤー自身のストーリーへの干渉といった角度から見て「自由度が高い」と言えるFallout3について考えてみよう。

「自由度」と「ロールプレイング」

Fallout3は、核戦争後の世界を舞台としたRPGだ。主人公は核戦争前に造られた核シェルター、Vault101に生まれ、その後、危険な外の世界に父を探すべく旅立つこととなる。f:id:F4LFER:20180418212659j:plain

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本作が「自由度が高い」と評価される所以は、キャラクタークリエイトにある。性別も、外見も、能力も、全てプレイヤーが決定することができる。さらに、プレイヤーキャラクターが話すことは無い。NPCとの会話では、基本的に複数ある選択肢を選ぶと、会話が進む方式だ。つまり、キャラクターの性格までも、プレイヤーが想像し、架空の人物を創造できるというわけだ。
「ロールプレイング」とは直訳すると役割演技だ。一般的なロールプレイング・ゲームであれば、主人公は容姿、性格共に固定され、主人公という与えられた役割をプレイヤーはこなす、即ち役割演技をすることとなる。しかしFallout3では、その「役割」は自ら創造したものとなる。そのため、没入感はなおさらだ。

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まず、プレイヤーは主人公の人物像を考える。まさに世紀末における救世主といった性格にすると決めたとしよう。ならば、プレイヤーは主人公として、飢えた者に水を恵んだり、弱者を救うことが出来る。なんの制限もなく、思う存分演じることができる。その舞台が、Fallout3には用意されているのだ。これは自由度が高いと言って差し支えないだろう。
前述した「プレイヤー自身のストーリーへの干渉」について、話を戻そう。例えば、プレイヤーはある人物に殺人を依頼されたとしよう。普通のゲームであれば、ここでその依頼を受諾するか、あるいは拒否するか、それは予め決められていることが多い。しかし本作は違う。殺人の依頼を無視することも勿論可能であるし、その場で依頼主を殺害してもいい。依頼主に、報酬の増額を要求する事さえできる。
このように、一つのミッションにも複数の解決策が存在する上、そのミッションを無視してストーリーを進めることができる。プレイヤーはまるでその場にいるかの如く、自由に生き、その行動は仮想世界に影響するのだ。まさに自由である。
しかし、GTAVがFallout3に劣っているという訳ではない。現代社会で、車を乗り回し、犯罪に手を染めるGTAVと、道徳観が崩壊した核戦争後の世界を生きるFallout3は、全く別物だ。
ここで一つ、大きな問題が浮き彫りになる。

「自由度」という物差しは歪んでいる

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先程、自由度が高いと言われる二つのゲームを比較した。しかし、二つのゲームの内容は、全くと言っていいほど別物だ。この全く異なる二者に優劣をつけるのは不可能だ。だが、両者には共通点がある。「自由度が高い」と評されている、という点である。
「自由度」とは何か?たった二つのゲームを比較しただけでも、乗り物に乗れる自由、ミッションの解決方法の自由と、いくつも、一致しない理由での「自由」が存在する。また、当然ながら人によって、どこに自由を感じるかも違う。
ここまで検証してなんとも腑に落ちない結論ではあるが、事実、私は次のように考えている。「自由度」は、ある一つの度合いとして定義することは不可能だ。どのようにしてゲームの「自由度の高さ」を計るかは人それぞれである。f:id:F4LFER:20180418213933j:plain

また、ゲームによって様々な、意味合いの異なる「自由」が存在する。だから、ゲームを評価する上では「自由度」は公正な評価基準とはなり得ないのだ、と。
だからといって、あるゲームを人に勧めるときに、「自由度が高い」というのが不適切か、と問われればそうではない。ゲームの評価出来る点としては、「自由度」は挙げるのに適した評価点だ。問題はその「自由」が、一律では無いということにある。つまり、様々なゲームを「自由度」という物差しで比較するという行為が、適切ではないのだ。
長々と綴ったが、私が伝えたいことは、「自由度に対する見解に、明確な正解は存在しない。」ということである。あまりにも凡庸で、当然のことではあるが。これを結論として、「自由度」とは何か?という議題に対する私の見解を示し、締めくくりとしたい。

 

 

 

*1:Grand Theft Autoの舞台ロス・サントスと、その街並みを眺める主人公の一人フランクリン

*2:警察とのカーチェイス。犯罪行為さえも、GTAVではアクティビティの一つだ

*3:Fallout3の舞台、荒廃したワシントンD.Cと、本作のアイコンといえるT45パワーアーマー

*4:冒険に旅立たんとする主人公。プレイヤーは主人公として、この荒野でどう生きるも自由だ